2010年(平成22年)6月10日号

No.470

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

安全地帯(286)

信濃 太郎

「万感想いの会」を開く
 

 大連2中17回生(昭和18年3月卒業・関東地区)は、毎年5月と11月に会合を開く。昨今、集まるのは10名前後である。85歳になる今年は「万感想いの会」を開いた(5月30日。東京・大崎「ホテル・ニューオータニ・イン東京」)。この日の出席者は12名。大阪からきた友人もあった。この日が楽しみにしていると、体調が悪いのに夫人の付き添いで出てきたものもいる。敗戦と共に母校が消滅、戦争で友を失い、引揚、復員などさまざまな苦労をしてきた仲間である。戦後65年、良く生きながらえてきたものだとの思いがする。世話人がこれまでの全国大会、関東・関西での集いなどのビデオを流す。出てくる同級生の顔を見て「あれもなくなった」「あのときは元気だったな」と言う声が漏れる。母校最後の総会(平成16年10月23日)でみんなが歌った「校歌」の合唱が流れる。あの時は自然と涙が出た。「みどりに澄める天つ空/広きを己が心として/亜細亜に強き魂を入るる/務めを果たす人とならむ/励め はげめ たゆまず励め」「いい校歌だな」の声が上がる。作詞は沼波武夫。当時一高の教授であった。俳人でもあった。


 手元に同級生26人の「近況」をまとめた「メモ」ガ配られる。「加藤陽子の満州事変関連のあれこれや岩下静夫のシベリア抑留物など読みますと、われわれとないかい子(トナカイは17回生の愛称)85年の歴史には深怨な思いや情念が凝縮されています」(熊本市在住)「シベリア抑留で満4ヶ年生き延びた人生、まあなるようになるとあせらず、天命がくるまでと・・・」(武雄市在住)「となかい40周年記念誌を時々読んでいる。故人となった有ヶ谷芳君が敗戦直前に送ってきた句が紹介されている。『青草に伏したるわれは命のまま』。どんなに口惜しかったことだろうと読むごとに想いを新たにしている」(立川市在住)「小学校の児童の登校下校が事故がないよう、黄色い旗を振っていますが、9年たちました、4月からは一年生が一緒に登校していますが大きな声で『オハヨー』と言うことでお互いの気持ちが通じ合い楽しくやっています』(四日市市在住)。


 テーブルを囲んで政治、経済、健康等の話に花が咲いた。鳩山さんの評判はここで悪かった。話はあちらこちらに飛び尽きなかった。11月は末の日曜日と決まって散会した。