2010年(平成22年)4月10日号

No.464

銀座一丁目新聞

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追悼録(380)

角田房子の業績をしのぶ
 

 作家、角田房子さんがなくなった(1月1日享年95歳)。新聞の訃報は2ヶ月も遅れた3月12日に掲載された。最近は東京・西立川の介護付きマンションで生活をされていた。ちくま文庫から増補改訂された「甘粕大尉」(2005年2月10日)が出版された際,本誌「追悼録」(2005年3月1日号)でこの本を取り上げた。その「追悼録」をお送りしたところ「近く食事でもしましょう」と言うことになったが角田さんの体調が悪くダメになってしまった。そのままになったのが残念でならない。
 角田房子さんは私が社会部記者時代の社会部長、角田明さんの夫人である。角田社会部長から「房子が鑑識のことを知りたいというので警視庁の鑑識の人を紹介してほしい」と頼まれた。昭和36年ころで、私が房子さんを鑑識の神様と言われた岩田政義さんのところに案内した。房子さんはざっくばらんな岩田さんと意気投合、話が終わった後、二人でY談に打ち興じていた。これ以後、私は房子さんの愛読者となった。
 角田房子さんには「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」「一死 大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾」「責任 ラバウルの将軍今村均」等軍人を取り上げ、軍人たちが戦時をどう生き、どのような責任を取ったのかを明らかにしている。多くの識者たちが軍人を悪しざまに言う中にあって、良い面にも目を向け評価した。本間中将は陸士19期、陸士・陸大恩賜、バターン半島攻略後多数の捕虜を徒歩で移動させた“死の行進”で軍司令官として戦犯に問われて処刑された。いわれなく報復裁きであった。軍事法廷で夫人が「再び嫁ぐ場合私はまた雅春を選びます」と証言したのは有名な話である。阿南大将は陸士18期、陸大に4度目の挑戦で合格した武人、“徳将”と言われた人格者であった。昭和20年4月から陸軍大臣で8月15日未明、全陸軍を代表して、敗戦の責任を取って割腹自決した。今村大将は陸士19期、陸大首席。乃木大将に匹敵する聖将と言われた。オランダ軍事法廷で戦犯に問われた刑期を巣鴨刑務所で服役中、自分の部下たちがマヌス島の刑務所で服役しているのを知ってGHQに再三請願、自らマヌス島刑務所に入って部下たちと苦労を共にした。甘粕大尉は陸士24期。甘粕が北京の緑が美しい街路樹を守った話がある。昭和19年初夏、石炭増産で坑木が不足したので軍の命令で北京の街路樹を伐採することになった。街路樹の幹につけられた白い目印から気がついた甘粕が「とんでもない愚行だ」と反対取りやめさせた。もし実行されていたら中国人だけでなく世界から古都の美しさを破壊した日本とさげすまされたであろう。
 私はこの事実を角田房子さんの「甘粕大尉」で初めて知った。私の手元にある資料では甘粕は東條英機大将(陸士17期)と石原莞爾中将(陸士21期)の仲を取り持ち二人の会談を実現させたことがある。東條首相が戦局の将来について意見を求めたところ石原さんが「それは君が総理を辞めることだ」と言ったという。歴史は面白い。その舞台に上る有名無名の人々は実像と虚像を合い交えながらめまぐるしく現れては消えて行く。それらの幾人かの人々に光を当て私たちの前に見事に再登場させた角田房子さんの功績は大きい。
 

(柳 路夫)