2010年(平成22年)4月1日号

No.463

銀座一丁目新聞

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追悼録(379)

戦友 有安正雄君をしのぶ
 

 同期生、有安正雄君の急逝(3月22日・享年84歳)には驚いた。1ヶ月前、ある会合の帰り中央線武蔵小金井まで一緒した。このとき座れるからと市谷から三鷹まで総武線に乗った。三鷹駅構内でおいしいお菓子を売っている店があると紹介してくれて、そこで粽をプレゼントしてくれた。確かにおいしかった。彼は下戸でお菓子が好きであった。
 聞けば、3月6日午前11時ごろ羽田空港で高知行き便を待っているとき、突然気を失い倒れ頭を強打して脳を損傷、救急車で病院に運ばれ治療を受けたがついに意識が回復しなかったという。
 戦後、税務署員となった有安君はたちまち頭角を現し”ノンキャリの星”といわれた。現場のことには精通しているだけでなく物事を常に大局つかんで判断する。キャリアの役人も彼には一目置かざるを得ない存在であった。いつも正論を吐き、おかしなことはおかしいと主張する激しさもあった。組合の役員になった際、大会で他の代表たちが権利ばかりを主張するので、義務もしっかりやるべきだと釘を刺したこともあったという。人との付き合いもよく、バランス感覚に優れていた。国税庁審理課長、首席監督官、高松国税局長(昭和56年)と進んだ彼に税務関係でお世話になったものは実に多い。定年後は虎ノ門で税理事務所を開いて活躍していた。
 陸士では私は彼とは同じ中隊の同じ区隊であった。昭和19年10月から終戦までの決戦下、歩兵科の士官候補生としてしごかれた。大阪幼年学校出身の彼は常に淡々とし何事も動じることがなかった。同期生、上田広君の話では西富士の演習場で卒業前の最後の野営演習をしているときに終戦を迎え、この演習地で玉音放送を聞いた。全員シユンとしていた折、有安君と池田一秀君が「今こそ自由だ」と叫んだという。私には記憶がない。
 確か平成19年9月下旬、同期生の葬儀の帰り、有安君と東京駅から電車に乗った。彼は武蔵小金井駅に下車するまで一心不乱本を読んでいた、私は硬い本を読んでいたので四ッ谷駅を過ぎるころ、あきて本を閉じた。下車の際、彼に読んでいた本の名前を聞いたところ佐伯康英の「居眠り磐根江戸草紙・陽炎ノ辻」であった。それから佐伯の小説に夢中になり、たちまち30冊ばかりを4週間のうちに読んだ。江戸の町について基本的なことがよくかかれ、事件が起きた際、主人公がどのような対処法をとったかが参考になり、私なりに勉強が出来た。有安君と会うといつも何らかの知的刺激を受けた。このような友達は数が少ない。葬儀には九州、大阪から大坂幼年学校以来の同期生も姿を見せ、最後に同期生約20名が「遠別離」を歌って有安正雄君の冥福を祈った。
 

(柳 路夫)