2010年(平成22年)2月10日号

No.458

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追悼録(374)

中山晋平の墓を訪ねる

 熱海梅園にある中山晋平祈念館を見学、触発されて府中市多摩霊園にある中山晋平の墓に詣でる(2月8日)。京王線の「多摩霊園駅」の近くにあると思い込んでいたところ、南参道を通って霊園正門に着いたのは自宅を出て1時間も立っていた。意外と遠かった。場所は21区T種、6側、3番であった。松が一本「中山家霊塔」の上を左にのびていた。死んですでに58年(昭和27年死去、享年65歳)、最近は訪れる人もないと見えて墓前に供えられている花は枯れて果てていた。だが、彼の残した歌、童話は燦然と輝いている。「シャボン玉」(作詞・野口雨情)「テルテル坊主」(作詞・浅原鏡村)「雨降り」(作詞・北原白秋)次々に出てくる。懐かしい歌ばかりである。
 中山晋平は昭和19年、大東亜戦争が激しくなり、東京都中野区より熱海市西山町に移住して昭和27年12月ここでなくなった。記念館には晋平が使ったピアノ、直筆の譜面、レコードが展示されてある。童謡なども聞くことができる。 
 大正生まれの私には「カチューシャの唄」(作詞・島村抱月、相馬御風)は忘れがたい。中山は18歳で長野から上京、早稲田大学教授島村抱月のもとで書生生活をしながら東京音楽学校に入学、大正3年、抱月が松井須磨子とともに芸術座を創設、須磨子が劇中に歌った「カチューシャの唄」が大ヒット、中山晋平の名は一躍有名になった。抱月が死に、芸術座が解散してから、中山は童話の世界へ転ずる。
 物の本によると、西条八十・中山晋平コンビによるヒット曲の誕生は昭和3年6月の「当世銀座節」だそうだ。3番の歌詞に「東京銀座は 恐ろしいところ 虎と獅子が酌に出る みィちゃん はァちゃん 上がりだよ 注いだリキュールの 薄情例へ百夜を 来ればとて チップ二十銭じゃ ほれはせぬ」とある。
 当時のチップ事情を見ると「50銭は下の下、1円が当たり前、3円やれば二度目行っても顔を覚えている」という。当時、銀座のカフェの数は364軒、女給の数は3241人であった。この後「東京行進曲」「唐人お吉」「銀座の柳」「東京音頭」などのヒット曲が誕生する。このころの中山晋平は現代の弦哲也であろうか。中山晋平が作曲した歌は約3000曲に上るという。人の命は短いが文化の命は長いと言わざるを得ない。
 

(柳 路夫)