2009年(平成21年)12月1日号

No.451

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追悼録(367)

画家高木背水に「絵のいのち」を知る

 エッセイスト星瑠璃子さんから佐賀新聞に連載した(2008年12月1日から2009年10月26日・月1回)祖父、画家の高木背水の記事を頂いた。高木背水と言えば、明治天皇の肖像画を描いた人物である。この記事で高木画伯が佐賀士族の間に受け継がれてきた武士道「葉隠論語」をみっちり教わり「誇り高く生き死んだ」人物であるのを知った。感動的なのは背水の絵と知り合い、その絵にのめり込んで没後37年後にはじめて回顧展を開いた学芸員がいることだ。その学芸員が今は副館長として勤める佐賀県立美術館には寄託作品を含めれば40点を超す高木背水の作品が集められている。国内外から照会が絶えないという。「生涯一徹な精神を持ち続けた画家の作品が若き学芸員を通してよみがえり、またいつの日か人々と出会う日を待っている」。まさに絵は生きている。星さんは生き続ける「絵のいのち」の不思議を感じるという。
 佐賀市松原に生まれた高木誠一郎は12歳で単身上京、ひたすら絵の道に進む。画号「背水」はせっかく得た衣食の道を捨てて画道に専心するための決意表明であった。33歳の時、ロンドンに居を構える。印象派全盛のパリより質實なロンドンが気に入ったからである。滞欧3年、帝国ホテルで開いた個展には178の作品を並べて大きな反響を呼んだ。英国から帰国後2年目の大正2年に明治天皇の肖像の依頼を受ける。当時37歳。先輩を差し置いての抜擢である。ねたみや中傷の的となった。背水は肖像画の名手であった。渡辺長男氏の手になった銅像の原型写真をもとに肖像を描いた。明治天皇を描くことは「明治」と言う時代を描くことだという。「夜となく昼となくキャンバスに向かい、極度の不眠症と闘い、神経を病んで発狂かとまで噂されつつ描いた」。肖像は1年を費やして出来上がった。そのあと朝鮮へ渡る。38歳から47歳までの間、画壇から遠く離れ絵にいそしむのである。「世におもねず,誠の心を尽くして自然と向き合った孤高」がそうさせたのであろう。それは朝鮮で残した絵に表現されている。
 「葉隠」には「常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく、仕果たすべきなり」とある。高木背水はこれを見事実践したといえる。昭和18年、66歳でこの世を去った。
 

(柳 路夫)