2009年(平成21年)2月20日号

No.423

銀座一丁目新聞

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追悼録(339)

歌人、森岡貞香さんを偲ぶ

 戦後女性の短歌界をリードしてきた歌人、森岡貞香さんが亡くなった(1月30日・享年92歳)。平成4年8月同台経済懇話会での「戦後の短歌と現在の短歌」の講演をもとに森岡貞香さんを偲んでみたい。
 森岡さんは父親が陸士22期、ご主人が44期という軍人の家庭で育つ、歌は16歳の時から始められる。戦後間もなくご主人を亡くされ幼子を抱え、物のない時代を売り食いしながら歌一筋に生きてこられた。昭和25,6年ごろ、MPが戦犯を一人連れた森岡さんの自宅を訪ねてきた。総合雑誌に出ていた森岡さんの歌を見て死ぬ前にこの歌の作者にあって話を聞きたいと嘆願し、それが聞き入れられたという。その時の話では巣鴨の取り調べ中、拷問があったとか、どのように暮らしているとか、歌を作っている人も多いということであった。笹川良一さんの「巣鴨日記」(中央公論社)にも二世の米軍の少尉から理由もなく殴られる記述がある。笹川さんの歌.「賎が身は獄舎(ひとや)にゐれど魂は同胞(はらから)いかにと夜もねらじ」平手嘉一陸軍大尉(函館俘虜収容所第一分署長=室蘭)俘虜虐待で絞首刑となる(昭和21年8月23日)。「ますらを道にしあらばひたすらに務めはたして今日ぞ散りゆく」の辞世の句を残す。森岡さんは刑死された二人の戦犯の歌、二首を紹介された。
 「なんでもありませんよと笑みかけて成迫君はひかれゆきたり」(昭和25年10月6日処刑)「執行の予感に私物整理しいたるとき投げ込まれたる母の手紙」(昭和25年4月7日処刑)
 森岡さんが一番心に残っている「終戦の歌」は佐藤佐太郎さんの歌である。「ことごとく静かになりし山川はかの飛行機の上より見えん」。「敗戦後の日本を空から見た時に、ことごとく静かになっていた山川、あれはアメリカの飛行機の上から見えているだろうなって、直接『敗戦』ということをプロ作家ですからうたっていないんですが・・・・」森岡さんは「非常な悲しみと何とも言えない感情を込めた歌だと思った」という。歌人斎藤佐太郎さんは斎藤茂吉の語り部といわれた。「茂吉随聞」を残す。
 歌人窪田空穂はソ連から帰らぬ次男茂二郎を歌う。「一等兵窪田茂二郎いずこにありや戦さ敗れて行方知らず」「親といえばわれひとりなり茂二郎生きておるわれを悲しませいよ」
 「昭和20年代から30年代の歌は取ってもみんな、どなたの歌も好きなんですけれども痛切にいまよみかえしてみてもなみだがでるような思いで迫ってくる歌が沢山あるんです」と語る。
 森岡さんは短歌の場合5・7・5の後につづく7・7に短歌の言葉が持っている心があるという。「思いを述べるようなところ、自分の存在をたしかめるようなところというのは大体7・7のへんにこもってでてくる」そうだ。
 最後の森岡さんの歌を掲げる。
 「戦争にいのち消えたルことわりに戦後の貌のなきそのいちにん」
 「敗けいくさに近づきゐるを知らざりき幼子の湿疹の癒えがたかりき」
 「十三夜の月さし入りて椎の実のころがる空池のなかのあかるし」

(柳 路夫)