花ある風景(338)
並木 徹
友人鳥居崇君の大著「戦争考」を読む
友人鳥居崇君(愛知県半田市在住)の著書「戦争考」(新葉館出版)を読む。505ページもある。彼は戦後教師として52年間を若者と過ごし後は自由の身となった。「賢者は歴史から学び愚者は経験から学ぶ」という格言から一念発起して、折に触れて購入し拾い読みした書物を参考資料にして「歴史学習」を行い、この一書を著した。第一部は第4章まであって「歴史と何か」から「近代国家日本の成立」「日清戦争」「日露戦争」「日韓合併」などを論ずる。第二部は「明治から大正へ」「第一次世界大戦・シベリア出兵」など第11章まである。第3部は「支那事変から大東亜戦争」として第16章・終章まである。大変な労作である。鳥居君とは陸士時代、昭和18年4月入校時から同じ中隊で、昭和19年3月航空と地上兵科と分かれた際、同じ区隊となり、卒業までの7ヶ月間、起居を共にした。中学校の先生時代、数学を教えたと言うが、そのあくなき向学心には頭が下がる。
鳥居君はまず「歴史とは何か」から始める。東京外語大学名誉教授岡田英弘さんの「歴史の定義」を採用する。「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸にそって、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、説明し、叙述する営みである」。彼はこの定義に従って歴史書を正しく把握し解釈し、認識する。岡田さんは歴史を成り立たせる4つの要素のひとつとして「因果律の法則」をあげる、大東亜戦争が何故起こったかを考える上で「因果律の法則」を適用すれば、日中戦争、日露戦争、日清戦争、明治維新と行かざるを得ない。本書が大書になる事情がここにある。しかも第1章「近代国家の成立」に文を進めるまでにヨーロッパ人の歴史観を述べ「アメリカにおける植民地争奪」「アフリカの苦難」「インドの植民地化」「東南アジアの植民地化」「東アジアの欧米諸国の進出」まで13ページを費やす。世界との比較の中で日本の歴史を俯瞰したいからであろう。ともかく鳥居君がよく本を読んでいるのに感心する。札幌大学教授・田中章さんがその著「小国主義」(岩波新書)を紹介する。その中に「明治維新以後の日本の近代史は、ひたすら大国主義の路線を歩み戦争を繰り返してきた軍国主義の歴史に他ならなかった。(中略)維新期の日本の近代国家への選択肢を探る岩倉使節団が大国への熱いまなざしもさることながら小国への深い関心をもっていたことは、私には意外というほかない実感だった」と田中さんは書く。鳥居君はこの「大国主義」こそ「大東亜戦争勃発と敗戦」の遠因かつ根源ではないかと考える。日清戦争、日露戦争をへて日本の国防方針は「満州における利権を拡張していくとともにアジアの南方に発展してゆく」と決まる(明治40年日本帝国の国防方針)。
つまり、北に進めばロシアと衝突、南に進めばアメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、同盟国イギリスと対立する恐れが十分あった。この国防方針は政府との事前協議なしで山県有朋と軍が決めたもので閣議決定されていななかった。翌年の9月この国防方針と相反する外務省の「対外政策方針」が閣議決定される。政戦略不一致である。これがその後、軍が統帥権独立をかざして独走するきっかけとなる。さらに第一次大戦をふまえて北進、南進に加えて「中国本土への進出」が大正7年の「新国防方針」に加わる。その一方、国際連盟の発足により国際的な軍縮の関心が高まった。「ワシントン会議」となり「山梨軍縮」となる。日英同盟が廃止され、海軍軍部が制限された情勢に対応するため大正12年に「国防方針」が変わる。明確なる国家戦略が消え「国防の本義」という抽象的な表現に変わり、あらたに「短期決戦思想」が基本方針となる。時代の趨勢が戦争は総力戦で長期になるというものであったのに、この短期決戦思想はアメリカとの戦に向かいやすい問題点を抱える。「将来起こりうる戦争を総力戦と認識する場合は、アメリカとの国力差から可能な限り戦争を回避したいと言うことになる。しかし短期決戦思想に立てば、開戦当初の決戦兵力に準備が整えばアメリカに勝つことができる止、初期の決戦兵力だけならば整備が可能だと考えるようになる」。この点を指摘した陸軍参謀本部に対して海軍軍令部は「日本の能力は対一国が限度であり、対数ヵ国戦とならないようにするのが政治の責任である」とした。この時日本の選択肢としてワシントン体制の枠内で国益を徐々に追求していくことに徹して米英との対立を避け南守北進を限度としての国家戦略を構築すべきであった。それから逸脱して「大正12年国防方針」が、大正末期から昭和初期にかけて日本の国防が迷走し混迷を重ねる原因となったとする。黒野耐の「日本を滅ぼした国防方針」(文春新書)の著書はきわめて示唆に富む。
鳥居君の「歴史学習」は延々と続く。満州事変、満州国建設、2・26事件、支那事変、大東亜戦争と続く。大東亜戦争では各地域での戦いをこまく記述する。わたしたちが陸士予科在学中、校長であリ、第16師団長として出征、戦死された牧野四郎中将のレイテ戦にも言及する。牧野校長の長男一虎君とは同じ中隊で同じ区隊であった。牧野校長は出征にあたり「墓はいらない。卒塔婆だけで良い」といわれた。一虎君は戦後医者の道を進み、余裕が出てきた30年代になっても「多くの部下を死なせた責任者には墓はいらない」といっていたという。昭和63年に初めて「遺訓碑」が建った。碑には「武士的情誼を涵養し、花も実もあり、血も涙もある武人たるべし」と刻みこまれている。
鳥居君は歴史学習の結果、大東亜戦争は「大日本帝国の宿命であり、その流れの終末点で昭和の国家指導者たちが、あの戦争に直面したことは運命であって、ある意味で不幸なことであったといえよう」と結論する。私も同じ感想を持つ。彼が歴史から学んだものは「戦争はしてはならない」「戦争にまけてはならない」という。平和主義に徹することは間違いではないが「戦うことを忘れた国家」が滅びる運命をたどるのは歴史が証明するところである。
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