2009年(平成21年)2月1日号

No.421

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追悼録(337)

軍神、松尾敬宇海軍中佐をシドニーに偲ぶ

 友人霜田昭治君が暮れから正月にかけてオーストラリア・シドニーで遊ぶ。この地で商社マンとして活躍する息子さんを訪ねての旅だったと聞く。帰国後シドニー湾の写真を5枚もいただく。驚いたことに12月28日撮影の写真が3枚、12月31日の写真が1枚、1月5日の写真が1枚もあった。霜田君はシドニー湾を少なくとも3回も訪れている。その理由はここに軍神・松尾敬宇中佐(海兵66期・二階級特進)が眠っているからである。松尾大尉がシドニーを特殊潜航艇で襲撃し戦死したのは今から66年前である。今なおこうして現地に足を運んで当時を偲ぶ日本人が居るのは素晴らしい。
 「うつくしく やがてかなしき 夏の海」(霜田)
 いただいた資料には「松尾敬宇海軍大尉(24歳)・都筑正雄兵曹の特殊潜航艇は6月1日未明テイラーズ湾で魚雷攻撃を受けて沈んだ。豪州海軍は拳銃自決していた二人の遺体を収容、その勇気を称えて海軍葬をもって弔った。テイラーズ湾に、松尾大尉の遺影と特殊潜航艇の写真を添えた『1942年日本特殊潜航艇シドニーハーバー攻撃』の案内板が設置されている」(表紙の写真参照)。
 さらに昭和17年6月5日午後5時10分 大本営発表文が添えてある。
 「帝国海軍部隊は特殊潜航艇を以て5月31日夜豪州東海岸シドニー港を強襲し湾内突入に成功敵軍艦一隻を撃破せり 本攻撃に参加せる我が特殊潜航艇中三隻今だ帰還せず」
 特殊潜航艇3隻とあるのは松尾艇のほか中馬兼四中尉(海兵66期)と伴勝久中尉(海兵68期)の艇を指す。中馬艇も6月5日にシドニー湾から引き揚げられている。伴艇についての記述はないが、このシドニー襲撃で戦死を遂げている。豪州海軍は引き揚げられた4遺体を海軍葬で弔った。この海軍葬に国内から批判があがった。シドニー要塞司令官・ムアーヘッド・グルード海軍少将は「これらの勇士は最高の愛国者である。オーストリア人の幾人が日本人の千分の一の覚悟を持っているだろうか」と退けたと伝えられている。
 霜田君は「テイラーズ湾で沈んだ松尾艇の沈没した場所を確認してきたよ」とシドニー湾入り口付近の地図と「入口をにらむ砲台」の写真。それにテイラーズ湾の位置と案内板の写真を組み合わせて説明する。その熱心さには頭が下がった。
 「若武者の 影宿しけり 夏の海」(霜田)
 なお海兵66期生は卒業生219名中戦死者119名の多きを数える。この前後の期を見ると65期戦死者106名(卒業187名)、67期戦死者155名(卒業248名)、68期戦死者191名(卒業288名)、69期戦死者222名(卒業342名)。いずれも20代の若さで国のために散華している。
 

(柳 路夫)