グルジア映画、テンギズ・アブラゼ監督の「懺悔」を見る(9月5日・松竹試写室・12月20日から岩波ホールで上映)。スターリンの大粛清を想起させるこの映画が公開されたのは1986年10月、首都トビシリであった。翌年1月モスクワで上映され評判を呼んだ。独裁者のもと家族・市民が自由を奪われ、些細なことで命を奪われ、引き裂かれてゆく。その後ソビエト全土で公開され記録的な成功をおさめた。1991年のソ連邦解体につながるペレストイカ、グラスノチの象徴となったといわれる。ここに映画の持つ魔力を感ぜざるをえない。
そのグルジアで紛争が起きた。グルジアは日本の5分の一の領土の中に南オセチア共和国とアプハジア共和国の二つの共和国とアジャリア自治州を持つ。二つの共和国は独立意欲が強い。今回は南オセチアとの間に紛争が起き多数の死者を出した。もし日本で九州と四国が独立を希望、騒ぎを起こす事態となったら日本政府はどうするだろうか。さらに独立を支援する外国政府が存在するからややこしくなる。
映画の筋を追う。独裁市長ヴァルラム・アラヴァンが死に、葬儀には多くの人々が参列した。翌朝、市長の息子アベル家の庭に墓から掘り出されたヴァルラムの遺体があった。墓が暴かれる事態が2度も続く。警察が墓を監視する中捕まった犯人は、市長に投獄され死んだ画家夫妻の娘ケテヴァンであった。法廷に立ったケテヴァンは「ヴァルラムは私にとって忘れ得ぬ不幸と苦悩の源泉です。墓を掘り起こしたことがなぜ罪になるのか」と訴える。父サンドロは文化遺産である老朽化した教会の修復を市長に申請したことから市長に疎んじられ、無政府主義者のかどで捕まり死ぬ。粛清が続く。活気あふれた町から生気が消えてゆく。母ニナも逮捕され死ぬ。絶大な権力者は他人の行動を信用せず他人の言葉も信用しない。ケテヴァンは言う「人並みに葬ればヴァルラムの罪を許すことになります。すべて無実の犠牲者の名において遺族が遺体を掘り起こすことを要求します」。彼女への非難の声が上がる中ヴァルラムの孫息子トルニケだけが共感する。そして良心の呵責に耐えかねて猟銃自殺する。息子の死にアベルは目を覚まし、自らヴァルラムの遺骸を掘り起こし崖から谷底へ放り投げる。それが独裁市長の息子と孫の「懺悔」の形であった。
最後のシーンが意味深長である。教会のケーキを作るケテヴァンに長い旅をしてきたとみられる老女が「教会に行くにはこの道でいいんですね」と尋ねる。「ヴァルラム通りは教会に通じていない」と答えると老女は「教会に通じない道が何の役に立つのですか」と言い残して去る。「教会に通じていない道」を歩む国のなんと多いことか。歴史は繰り返す。人類の愚かなことよ。 |