2008年(平成20年)8月10日号

No.404

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安全地帯(223)

信濃 太郎

「フルベッキ大佐と軍旗」

 中学校時代の友人瀬川浩二君(横浜在住)から陸士51期の長嶺秀雄さんの書いた「機縁」というエッセイーをいただいた(7月27日)。長嶺秀雄さんの名前は記憶があった。「歴史と旅」-連隊旗でつづる太平洋戦争史―(秋田書店・平成4年9月5日発行)の中で長嶺さんが執筆している「レイテ作戦―歩兵57連隊ー(第一師団・佐倉)を読んだことがあるからだ。
 エッセイーにはフィリッピンレイテ島で戦った米軍の将校と戦後劇的に対面した話がつづられている。当時、第一師団に属する歩兵57連隊、大隊長の長嶺さんは昭和19年11月1日レイテに上陸した。57連隊の兵力は2498名、ほとんどが千葉県出身で連隊長は宮内良夫大佐(陸士27期)であった。宮内大佐は着任3年、温厚にして沈着であった。米軍はすでに10月20日レイテ島に上陸、日本軍との決戦を挑んだ。時の首相小磯国昭は11月8日「レイテは大東亜戦争の天王山である」といった。だが米軍の圧倒的な物量の前に戦いに利なく20年1月までに57連隊は連隊長以下わずか91名になった。なおレイテ戦全体の戦死者の数は8万人に近い。
 歩兵57連隊の相手は米軍24師団の歩兵21連隊で、連隊長はウエストポイント出身のフルベッキ大佐であった。大佐の祖父は幕末に来日して長崎に住み、佐賀藩の藩校「致遠館」の教師となり、大隅重信、福島種臣などの世話を受けながら桂小五郎、大村益次郎などの志士の教育にあたり日本の近代化に協力した。明治31年3月、東京赤坂で永眠。その墓は青山墓地にある。
 フルベッキ大佐は戦後来日、GHQの意向に反して靖国神社に参拝、第一師団長であった片岡董中将(陸士27期・騎兵)と会い、レイテの第一師団の善戦を激賞した。今年の靖国神社の7月の「みたままつり」の奉納雪洞に「戦に倒れし人々を祀り称えるは人の道なり」とあった。敵味方を問わず英霊に参拝するのは軍人の果たすべき務めである。長嶺さんはフルベッキ連隊との激戦で3回負傷したが、今なおご健在である。歩兵57連隊の栄光を物語る連隊旗が遊就館15展示室に飾ってある。セブ島で終戦を迎えた第一師団は片岡師団長が各部隊の軍旗奉焼式に臨み奉焼した。歩兵57連隊の軍旗は、持ち帰った断片を復元したものである。房しかない。16条の光線のある図柄が描かれた絹の布地は消失している。この展示室には歩兵143連隊旗(昭和15年徳島で編成・終戦時の所在地ポノンペン部隊長木村雄一郎)は房の1部3点、歩兵86連隊旗(昭和13年山形で編成、終戦時の所在地はバンコク東北、部隊長中川紀士郎)飾房だけなど歩兵、騎兵の軍旗の断片、奉焼した後の灰などが飾られている。「遊就館図録」(平静20年2月11日発行)にはこれら軍旗については残念ながら触れていない。軍旗の記述があるのは特別陳列室にある歩兵321連隊旗だけである。「昭和20年8月、終戦に伴い軍旗の返納または奉焼の命令が下達された。歩兵321連隊長後藤四郎中佐は。この軍旗が消滅することを惜しみ、報焼式には旗竿と奉安箱だけを奉焼した。その後、占領軍の撤退まで軍旗を守り通し、畑竿は複元し、靖国神社に奉納された。編成が新しい連隊のものでありこの軍旗は完全な形で現存する唯一のものである」とある。日本にはこのような気骨のある軍人もいた。


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