スポニチ登山学校は8月23日、閉校式と修了式をホテル銀座ラフィナートで行う。7月12日13日閉校に伴う最後の記念行事として登山を行なった。参加したのは2期生から11期生まで63名(非公式ながら12期生8名も参加)。安達太良山(1700m)、吾妻山山塊,磐梯山(1819m)をそれぞれ登った。12日夜は早稲沢温泉宿でキャンプフアイアを楽しみ夜が更けるのを忘れた。この夜、10期生の生徒、といっても65歳を超える男性が私に「6期生の人に誘われて登山学校に入ったのですが私の人生観が変わりました。すべてに前向きに考えるようになりました。ありがとうございました」。こんなうれしい言葉はなかった。
スポニチ登山学校は「サガルマータ」(エベレストという、8848m)に群馬県登山連盟の登山隊が冬季南西壁から登頂に成功したことにはじまる。平成5年12月18日のことである。登頂に成功したアルピニストを講師としてむかえた。
開校してここに12年、座学と実践で鍛えられ基礎的技術を身に付け、情誼厚き生徒たちが卒業してもいまなお山を楽しむものが少なくないのは嬉しい。この間遭難事故が一件も起きなかったのは何よりであった。八木原圀明前校長,尾形好雄校長をはじめ各講師の指導がよかったからであろうと思う。
1期生が入校したのが平成8年1月24日。78名を数えた。写真付きの学生証が配られた。私の学生番号は「95001」である。普段から名刺入れに大切に保管している。入校時にいつも尾形さんが「この学生証は学割りがききませんから注意してください」といって生徒たちを笑わせた。生徒数は年々少なくなった。平成18年の11期生は17名であった。1期生から11期生まで生徒たちは400名を超える。その山女、山男たちが素晴らしい。それは修了作文集「サガルマータ」に残されている。「なぜ山に登るのか」と問われて「そこに山があるから」などとありふれた答えをする生徒は一人もいない。みんな3条の校則を胸にそれぞれに個性ある答えをする。「そこにいると気持ちがよくて、自分が好きでいられるから」「山の花に魅せられて・・」いろいろある。中でも「天女になれるから」は秀逸であった。
何よりも基礎から叩き込まれる。「事故と弁当は自分持ち」「山は機嫌のいい時に登らせていただく。自然は防ぎきれない」「山はすべて平等、山は無理をしないで長く付き合おう」という「山の基本原則」は口が酸っぱくなるほど教えられた。「基本に忠実であれ」は人生の基本である。山行は人生の延長線上にある。みんな山に親しみ、山を愛し、多くのことを山から学んだ。登山学校の10周年の祝賀会が開かれた(平成18年2月4日・東京・東池袋「かんぽヘルスプラザ東京」)時の話である。卒業生たちはそれぞれの人生を楽しく過ごしているのを知った。2期生の河村保男さんは70歳を超えた今もあちらこちらから頼まれて教育時評を書いている。元中学校の校長、若いころは熱血先生であった。5期生の別所俊彦さんはさらにすごい。数年前に胸部に腫瘍が見つかり胸腺の全摘出手術をやることになった。一般的には胸骨を縦に切断して摘出するのだが、それでは運動障害が残り、重いザックが背負えない。医療ミスの出やすい胸腔鏡による手術を選んだ。成功した。「若さは年齢ではない」というのがこの人の信条である。目標を立てそれを実行してゆくという。常に目標を立てるのは大切である。体を動かすことによって次の目標が生まれてくる。生きがいも生まれる。祝賀会の日、歌の指導をした8期生の国分りんさんは常に前向きに生きる人である。秘書の仕事をしながら山行に精を出す。笑顔を忘れないのがいい。国分さんは会津女である。会津で小学校からの友人であるという品の良い女性らと今年の2月、東京・上野の芸大でモーニングコンサートに誘われ、フルートを楽しんだ。山が取り持つ縁である。6期生の藤原昭生さんは平成12年10月奥さんをガンで亡くされ、一時はやけ酒を飲んでいたのに8期生の塚越香織さんと平成17年10月に再婚されたという嬉しいニュースも生まれた。これらは、ほんの数例にすぎない。ほかにも幾多の興味ある人生模様がある。生徒たちに何がしの人生の糧を与えることができたとすればこれ以上の望みはない。さらばスポニチ登山学校よ・・・
(柳 路夫) |