2008年(平成20年)4月1日号

No.391

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追悼録(307)

森戸辰男と日本国憲法

  友人の西村博君から塩田純の「日本国憲法誕生」−知られざる舞台裏―(NHK出版・2008年1月30日発行)を読めと勧められた。日頃から私が「占領期間中に憲法という重大な法律を改正するのは国際法上許されないことだ。だから日本が独立を果たした昭和28年4月以降ただちに憲法を改正すべきであった」と言っていたのを知ってこの本を 勧めたのであろうと推察した。この本には森戸辰男が新憲法について「制定後少なくとも10年後に憲法を再改正すべきである」と考えていたことが明らかにされている。この考え方について森戸は昭和33年(広島大学学長時代)憲法調査会で証言する。「10年になれば当時条文には書きませんけれど、占領も終わって日本は独立すると考え、同時に国際情勢も国内情勢もほぼ見当のつくようなものになるであろう。しかも10年もすれば国民は虚脱、混迷、興奮からさめて、冷静な判断ができるようになるであろうと。加うるに10年もすれば教育も進んで、民主的平和的な教育の正しい形も国民にわかってくれるであろう、こういうときにこの憲法は再検討さるべきである、こういうふうに考えたからでございます」まことに卓見である。当然である。爾来、日本は一回も憲法を改正することなく今日まで来た。
 戦後、大学の法学部を出た西村君は病気で郷里の北海道・倶知安で静養中、知人に呼び出されて上京、当時、衆院議員であった森戸辰男の秘書(昭和24年1月15日)となる。森戸が議員を辞職して広島大学長(1950年4月)就任後もそのまま秘書を続けた。一見ぶっきらぼうな西村君だが、仕事ぶりはきめ細かく細心である。森戸は西村君を信用し、すべてを任せ財布まで預けた。
 森戸が憲法研究会にかかわるのは東京帝国大学時代の恩師高野岩三郎の関係である。現憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。この条文の提案者は森戸である。ドイツに留学した森戸はワイマール憲法からこの発想をしたという。アメリカ、フランスの近代憲法を参考にしてつくられた政府改正案には「生存権」はなかった。生存権の挿入は「福祉国家」への第一歩であった。ドイツが最も民主的なワイマール憲法を持ちながらヒトラーの一党独裁を招いた教訓から森戸が選んだのは漸進的な福祉国家の道であった。日本の現状は財政事情から福祉政策が遅々として進まないが国民が権利を持っている意義は大きい。
 森戸は日本育英会会長、中央教育審議会会長、国語審議会会長など戦後教育改革に取り組み、昭和59年5月28日死去、享年96歳であった。西村君の話によれば、自分で健康には気をつけられる方であった。酒の席では番茶を入れた徳利の首にひもを結ばせて傍らに置き、相手とお酌のやり取りするときは仲居さんが番茶をついでいたという。相手の気持ちをそらすようなことをされない方であった。また好んで夏ミカンを食べ、朝晩必ず体操を欠かさなかった。趣味は川釣りを好まれた。森戸の講演依頼者は「アユ釣りに良い川があります」と釣りの話で誘って頼んだそうだ。
 著者塩田純は「格差社会、ワーキングプアの問題が論議される今日、憲法25条の生存権を盛り込み、福祉国家を目指した森戸の構想は見直されてよいのではないか」と「おわりに」に書く。森戸の先見の明に今更のように感服する。その謦咳に接した西村君をうらやましく思う。

(柳 路夫)

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