2008年(平成20年)3月10日号

No.388

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(305)

開真君は最後に「ありがとう」を5、6回繰り返した

  毎日新聞社会部で一緒に仕事をした陸士の同期生、開真君が亡くなった(2月29日・享年82歳)。調布市西つつじヶ丘3丁目、延淨寺で執行された告別式(3月4日)で喪主・芳子夫人は参会者に立派な挨拶をされた。『2月14日朝6時20分ごろ、主人は胸が苦しいから救急車を呼んでくれというので消防署に電話しました。すぐまいりました救急車の中で救急隊員に「ありがとう」「ありがとう」と5、6回繰り返しました。隊員が「体に触りますからしゃべらないでください」と言いました。病院で手厚い手当てを受けましたが意識を回復することなく、なくなりました。はじめの「ありがとう」は救急隊員に、次の「ありがとう」はおこがましいですがおそらく私に、3番目の「ありがとう」は家族たちに、4番目は主人を支えてくれたみなさへの感謝の言葉であったと思います。それを繰り返したかったのだと思います。「ありがとう」は私が聞いた主人の最後の言葉となりました』
「見出しがすぐつくのが名文」といわれるが、開君と同じく芳子夫人もなかなの名文家だと思った。
 私の手元に開君の「泣き笑い消防記者二十八年」(毎日新聞)の著書がある。昭和56年2月25日発行とあり、発行人に私の名前がある。あとがきによると、昭和56年8月毎日新聞を定年退職した開君を励ます会の席上、出版局長であった私が消防記者の話を書けと勧めたとある。警視庁記者クラブに在籍した各新聞社の中で彼ほど消防庁を絶えず取材した記者はいなかった。「オープンさん、オープンさん」と親しまれた。消防署員を希望する若者の手引書まで出版している。
 「生涯新聞記者」を貫き、定年後も毎日新聞の青梅通信部主任となった。愛社精神旺盛で、2003年5月志村消防署で火事があった際、開君がどこかからか聞き込んだのであろう。社会部へ「あの火事は放火だよ」と知らせた。開君は特ダネにしろと教えたわけだが、20日ほどたって志村署は「消防署の火事は放火であった」と公式発表した。せっかく知らせたのに今どきの若い記者は何事も競争せず発表待ちの消極さだと開君は怒っていた。毎日新聞を離れ20年もたつのに毎日新聞の仲間たちが20人ほど参列した。そのうちの一人堤哲君が開君からきた手紙を見せてくれた。それには靖国神社にインドのパール博士の胸像が建立されたことを知らせ、東京裁判で無罪を主張した博士の業績が書かれてあった。パール博士の胸像の写真まで添えられていた。
 お通夜には陸士59期生の同期生が30人ほど参列し「航空士官学校校歌」を歌ったそうだが告別式では「遠別離」を歌った。仙台幼年学校以来の同期生下村邁君の夫人智子さんは昭和23年頃からの開君(当時は梅川という姓であった)を知っておりこの日わざわざ軍歌集「雄叫」を持参、「今日の別れをいかにせん」と口ずさむ。棺を同期生たちが担ぎ霊柩車まで運んだ。「いざ勇ましく往けや君/往きて尽くせよ国のため」合掌。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp