2007年(平成19年)6月20号

No.363

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安全地帯(182)

信濃 太郎

世の中は皆陽炎の姿なり  花輪墨雨

 珍しく札幌、旭川に遊ぶ(6月8、9、10日)。旅先で俳句が何故か飛び込んでくる。9日朝旭川に向う間、中島公園のなかにある「北海道文学館」をのぞく。観覧料400円。65歳以上は無料であった。10時すぎであったせいか観覧者は私一人であった。もっとも公園入り口からフリーマーケットの店が軒を並べて観光客で賑わい、古着に若い女性たちが足を止めていた。
 北海道の文学者といえば有島武郎、小林多喜二、渡邊淳一、三浦綾子、伊藤整などの名が出て来る。ケースのガラス越しに「日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ」の寺田京子(1921年〜1951年)の俳句が目に入る。「必死に生きる彼女の姿」が目に浮かぶ。鷹の季語は冬。持ってきた「俳諧歳時記」夏(新潮社編)には寺田京子の句は「セルを着て遺書は一行にて足りる」とあった。いずれにしても寺田の句は暗い。「鷹とんで朝海無数の針流れる」「鷹は旅へ女に水の透き通利」「冬の鷹二つ耳もち生き残る」「頭上よりシャワー見えざる鷹が飛ぶ」など鷹を読んだものがある。体の弱い自分を鷹に置き換えたのであろうか。鷹が自分であり憧れであり希望でもあったと思われる。
10日午後自衛隊旭川駐屯地の敷地ニオープーンした「北鎮記念館」を見学した。明治の屯田兵や旧陸軍7師団の歴史や戦後の自衛隊の活動を記した資料など2500点が展示してある。「7師団とゆかりの文学」コーナ室の入り口の説明にびっくりした。「旭川の文学史は明治34年(他の資料では明治31年)余市から移住した花輪墨雨(1835年から1910年)が句会『旭風連』を開いたのを始まりとする」とあるではないか。道北文学発展の先駆者が俳人であった。「世の中は皆陽炎の姿かな」の句碑が旭川市宮下町東本願寺別院納骨堂横にある(明治37年)。驚くに当たらない.「明治初期の俳句界は、全国津々浦々辺坂の寒村にも俳諧宗匠がおり、俳諧の運座や点取りが行われていた。俳諧は隆昌を極めていた」という(村山古郷著「明治大正俳句史話」・角川書店)。同書によれば写実主義の正岡子規の後を継いだ碧梧桐は明治38年8月全国俳行脚の旅にでて北海道にも足跡を残している。
北海道長官も勤め、初代7師団長の永山武四郎中将の四女阿部みどり女(1879年〜1980年)の句碑も旭川市永山3条10丁目永山屯田公園内の「屯田歩兵三大隊本部跡」の碑の裏面にある。「郭公や美田の底に鎮む魂」。札幌に生まれた彼女は大正4年虚子に師事、俳句の道に入る。「月下美人力かぎり更けにけり」「松虫や子ら静まれば夜となる」「小波の如く雁の遠くなる」「瓶触るる音のして夜の夏座敷」などの句を残す。たまたまの旅は明治・大正・昭和と俳句の流れを垣間見るものでもあった。

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