花ある風景(275)
並木 徹
道を聞かれたら断らずに教えよう
新聞は社会の鏡である。生きている人間の姿がそのまま映し出される。さまざまな人間がいる。74歳の女性が通り掛かった郵便配達の局員に道を尋ねたところ「個人情報はお知らせできません」と断られたという。毎日新聞の「女の気持ち」(5月17日)に掲載されていた出来事である。
記事に寄れば同じ区内に住むボランティアの友人宅を訪ねようとして出かけたが、目指す番地あたりに着いてもわからないので配達を終えた郵便局員に声を掛けた。すると、個人情報をたてにサッといってしまった。「メモを持った私。74歳。杖をついた3本足。どんな人に見えたのでしょうか。あぜんとしました。住所のメモをちょっとみてくださるだけでもアドバイス、小さな親切が出来ると思います」女性は諦めて帰ったという。相手が氏名も住所も知っており、番地のありかを聞くだけである。それがなぜ「個人情報」と関係があるのか、番地は「公開された情報」である。個人情報を教えることにはならない。教えないのは不親切というほかない。私は「一日一善は長生きの秘訣」と、ささやかな親切の実行を人に進め、自分にも言い聞かせている。
道を聞かれて断るのは土地柄、人によるのかも知れない。70歳を過ぎると、二三度来たところでも迷うことがよくある。その都度、道を尋ねたが、個人情報をたてに断わられたことはない。快く教えていただいた。
産経新聞の「談話室」(5月18日)には当日宿をキャンセルする遍路さんが多いという投書が紹介されていた。当日キャンセルされては料理の材料がムダになり空室が増えて経営にも関係してくる。相手の立場を思いやってキャンセルはする場合は前もって連絡するのがエチケットというものである。いつのまにか自己中心主義者が多くなってしまった。これはしつけ、教育と大いに関係ありそうである。「親學」なんという言葉を持ち出さなくても
子供の時から「親切心」「思いやり」「同情」「惻隠の心」を養っうのは親のつとめである。昨今の新聞を賑わす不親切な局員、エチケットのない遍路さんを見ると「親學」の必要性を強調せざるを得ない。 |