2007年(平成19年)4月1号

No.355

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
自省抄
銀座の桜
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(272)

小坂主和子さんを偲ぶ

  故人が好きであったバッハの調べが会場を流れる中、マリア小坂主和子さんを偲ぶ会が開かれた(4月3日・日比谷松本楼)。主和子さんは昨年4月10日67歳でなくなった。早くも一年。音楽の父といわれるバッハには数多くの礼拝楽曲を残している。敬虔なクリスチャンであった主和子さんは賛美歌「いざ、よろこびてゆかん」の歌詞からとられた「コラール・ブレリュード」も好きな曲であったと思う。清楚な二人の女性が次々に奏でるヴアイオリンとヴィオラの二重奏は心地よかった。
 会場で披露された在りし日の主和子さんを偲ぶ15分間のビデオは出席者に多くの感動を与えた。はじめに松本楼一階ロビー左手にあるピアノが映し出される。このピアノは孫文夫人、宋慶齢ゆかりのアップライトピアノである。孫文は日本に亡命中、屡々足繁く主和子さんの祖父梅屋庄吉邸に出入りしていた。ここで同じく亡命中であった革命家、宋慶齢と出会い結ばれた。中国に帰国するまで庄吉が主和子さんの母、千世子さんのために購入したピアノを暇さえあれば弾いていたというエピソードである。
 孫文と庄吉の運命的な出会いは1895年(明治28年)。今から112年前のことである。庄吉27歳、孫文29歳。二人を引き合わせたのは孫文の恩師でありであり、庄吉とは趣味の写真を通じて知り合った医学博士、ジェームズ・カントリーであった。庄吉の革命家、孫文への思いは中途半端のものではなかった。「君は兵を挙げよ 我は財貨を挙げて支援せん」と庄吉が誓ったように、革命支援に投じたお金は現在の2兆円にも達するという(「梅屋庄吉と孫文」読売新聞西武本社編)
 会場には主和子さんが中国中山陵にある孫文の銅像の前で立つ写真があった。孫文の死後(1925年3月12日死去・享年58歳)庄吉は私財を投じて孫文像を4基を中国に贈っている。主和子さんが語ったところでは当時庄吉はお金がなく娘千世子さんに与えた持参金を一時拝借して用立てたという。まことに義理堅い人であった。「偲ぶ会」を主催した松本楼社長、小坂哲瑯さんの挨拶は短く、ビデオが十分に主和子さんの生前の活躍を偲ばせ、心温まる会であった。

(柳 路夫)

文中の書籍はこちらから購入出来ます。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp