2007年(平成19年)2月10号

No.350

銀座一丁目新聞

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追悼録(266)

「金儲けを考えるな。志を高く良い仕事を」

  岩波書店元社長、岩波雄二郎さんとは、岩波ホール総支配人、高野悦子さんを通じて知り合った。印象は一本筋の通った、常に悠々とした大人(たいじん)の風格があった。岩波書店の社長の親しさよりももっと人間の器の大きさを感じさせた。中国への思いは強く、1947年から中国五大学へ岩波書店発行図書全点寄贈されているのを偲ぶ会(2月1日帝国ホテル)ではじめて知った。この事業は創始者、父岩波茂雄さん遺志であった。茂雄さんは日本の文化が中国から多くの恩恵を受けている。仲良くしなければいけないのに戦争となったのは日本の大きな誤りで、中国にあやまらねばならないと主張して譲らなかった信念の人であった。
 1968年2月10階建てのビルに「岩波ホール」(232席)ができた時、總支配人の高野悦子さんに「金儲けは考えるな、志を高く持ってよい仕事をして欲しい」といった。そう簡単にいえる言葉ではない。経営者は目先の利益ばかりを追求したがるものである。「よい仕事」をするのは岩波書店の伝統である。1914年(大正3年)9月当時朝日新聞に連載された夏目漱石の名作「こころ」を出版した。1938年(昭和13年)11月、時流に抗して「岩波新書」を創刊、「新書判」の魁を作っている。
 当時全国にある7千館以上の劇場や映画館の責任者は悉く男性であった。義妹といえ女性をホールの責任者につけた人事は雄二郎さんの勇断といってよい。就任から3ヶ月後「岩波ホール」はつぶれるといううわさが流れた。高野さんは雄二郎さんに励まされ「よいものはかならずわかってもらえる」と信じてがむしゃらに走りつづけた。今や「岩波ホール」はミニシアターの生みの親といわれ大きな存在感を示す。
 1946年(昭和21年)1月、岩波書店に入社、1949年(昭和24年)4月社長になった岩波さんは勲章や賞には関心なくすべて辞退されたと聞く。なかなかできることではない。名誉に恬淡であるのはその心が何よりも高潔であった徴である。
晩年の5年間は闘病生活で27回の入退院を繰り返した。そのつど危機を乗り切ったが、ついにその時がきた。人工呼吸器で口が利けなくなった岩波さんを励ますため長女の岩波律子さん(岩波ホール支配人)が1930年代のドイツやフランス映画の主題曲をCDで流した。さらに家族で枕もとで「会議は踊る」や「パリの屋根の下」を歌い続けた。雄二郎さんが最後に聞いた曲は一番好きであった女優、マレーネ・ディートリッヒが歌う反戦歌「リリー・マルレーン」であった。高野さんが弔辞で最後の臨終の話を紹介、「岩波ホールの名画上映運動<エキプ・ド・シネマ>は映画の仲間を意味します。私たちの最大の映画仲間は岩波さん、あなたです」と読み上げた時、式場は悲しいまでの感動に包まれた。岩波雄二郎さんは1月3日、享年87歳でこの世をさった。心からご冥福をお祈りする。

(柳 路夫)

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