2006年(平成18年)12月20日号

No.345

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安全地帯(165)

信濃 太郎

「カメラの旅人」に示された文明批判

 岩波ホール支配人、岩波律子さんが翻訳したポール・コックス著「カメラの旅人」ーある映画人の思索と回想ー(北沢図書出版)を読む。私はポール・コックス監督の映画は「ある老女の物語」(1997年・岩波ホール)しか見ていない。「映像は人々の人生に、最新流行の料理よりも遙かに強い影響を与える」という監督自身の半生を描く。オランダでの子供時代、オーストラリアに移住した時の出来事、写真家から映画監督になった話など波乱の人生である。珠玉のような言葉が散らばっている。「人間に少しでも未来があるとすればそれは単なる科学と理性の賞賛のなかではなく、人間の持つ創造力と他人の痛みを理解する能力の中にこそある」だからこそ、コックスは「情緒的な人間が知的な人間の上に立つべきである」と信じるのである。この世は合理性だけでは説明出来ないものが多い。それを科学、理性、合理性を万能と考えている輩が少なくない。日本の経済界に瀰漫している「市場原理主義」は間違いである。優れた数学者であった岡潔さんは美的情緒を愛された。
 1940年、ドイツの国境近くにあるオランダの田舎町で生まれたコックスは戦争を経験し、疎開も体験する。「死と破壊」の5年間であった。19歳の時、徴兵されて軍隊に入る。ここでホッケーの事故で入院したおかげで読書の楽しみを覚え、キルケゴールからサルトルまで、アンドレ・ジードの「背徳者」からアルベール・カミユの「異邦人」に至るまで読む。フランツ・カフカの「城」は3回も読んだ。軍隊を除隊後、母とパリへ旅行へ行く。写真屋の父から借りたカメラで写真を撮ったことで彼の世界観が変わる。とりわけ、パリの公園で一人の少女が椅子に座り夢を見るように世界を眺め、背景を一組のカップルが写っている写真は見事である。「自分が生まれながらの冒険家であること」に気づく。1963年オーストラリアへ行く。舟の中で知り合った友人がクラシック音楽好きであったことから熱烈なクラシックのファンになる。旅には必ずレコードを持参した。音楽こそあらゆる創造力の基礎であり、W・B・イエーツがいうように『すべての人の人生は交響楽である』ということになる。私もクラシックが大好きであるが、心を癒すのに役立ち、良い遺伝子をONにすると思っているにすぎない。コックスは言う。「映像は音楽に合わせて作られるものであり、けしてその逆ではない。音楽は文学や演劇よりももっと映画とかかわりがある」。コックスは14本の劇映画、多くの短編、子供のための映画とドキュメンタリーを作った。彼は言葉だけが唯一の伝達手段でないことを知った。舞踊家のニジンスキーは「私が踊るのを見れば私を理解できるであろう」といった。ここで彼は言い切る。「今の子供たちは、ふさわしくない者を崇拝しながら育つ。不当までに有名で、ほとんど中身のない人々を崇拝して成長する。私達はこの浅薄さの前で何も出来ず、そのことに気づこうともしない。見るもの聞くものすべてが、ただうわべだけのものだったら誰が人生に実質をみいだすことができるだろう?」日本のテレビ界の人々はこの声をどのような気持ちで聞くであろうか。
 コックスが自作の中で唯一満足している「ある老女の物語」を取り得たのは、そういう時に人生を誇りを持って生きてきたシーラ・フローランスと知り合ったからである。ガンで死に掛かっていた人生最後の時に、自立して生きて行く信念をもつシーラを描くことによって「人間の誇りと自立」を映像で示した。
 彼はインドで大きく成長する。インドは世界最大の映画産業である。年間800本から900本の映画が25の言語と方言で制作される。デリー映画祭に持って行った「尼僧と盗賊」が盗まれれたちまち海賊版が作られる始末であった。インドの若い映画作家たちは「配役を誰にするか、どんな観衆を考えているかについては話題にしない。自分たちが何を言いたいのか、そして自分たちの希望と夢をどのように人々と分かち合うのかについて語るのだ」という。このようなみずみずしさが日本の映画産業にあるのだろうか。
コックスは今やオーストラリアの重要な映画監督である。本書は自分史を赤裸々に語りつつも鋭い現代文明批判になっている。


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