2006年(平成18年)11月20日号

No.342

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
自省抄
銀座の桜
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

花ある風景(257)

並木 徹

大正、昭和における一軍人の生き方

 千葉59会常磐懇親会で同期生宮崎忠夫君の話を聞いた(11月10日・柏プラザホテル麗宮飯店)。彼の父親、宮崎周一中将の陸士受験から少尉、中尉時代の暮らし、世相、陸士区隊長時代、陸大時代など話は多岐に渡り興味深かった。参加者は21名であった
 宮崎君の父親は長野の出身だが、若い時豊橋で書生をしていた。歩兵18連隊の演習を見て勉学していたので、歩兵18連隊を希望して陸士を受験した。幸い合格したものの秋田の歩兵17連隊へゆく。合格発表は官報だけであった。しかも成績順に並べられる。父の名前は200番ぐらいのところにあった。合格者は415名で大正2年12月士官候補生として各連隊へ入隊した。ここで1年間基礎教育(幼年学校生徒は半年間)を受けた後、その連隊の士官候補生として士官学校に派遣される。当時連隊の主力は北朝鮮に駐屯していた。父親が入隊した秋田連隊は留守部隊であった。(明治43年8月、日韓合併があり朝鮮総督に寺内正毅大将がつく)重要地域警備のため2個師団が2年交代で北鮮に駐屯した。入隊3日後には青森港から3000トンの輸送船で羅南に運ばれて、ここで厳しい初年兵教育を受ける。大正3年12月、陸士28期生として入校したのは684名であった(幼年学校生269名)。大正5年5月卒業まで士官学校生徒であるが、身分はあくまでも歩兵17連隊士官候補生である。この制度は大正9年の学制改革まで続く。この改革で陸軍中央幼年学校を合併して陸軍士官学校予科とし、従来の陸軍士官学校が同本科となる。陸軍地方幼年学校は陸軍幼年学校となった。これは中学4年生から高校受験ができるようになっため、優秀な人材を軍に採用するためにとられた改革であった。
 28期の卒業生は651名。歩兵373、騎兵46、野砲兵118、重砲兵31、工兵39、輜重兵44。61パーセントが歩兵である。軍の主力は歩兵である。(私たち59期生の場合、航空兵1600、歩兵529、重砲21、野砲18、山砲39、迫撃19、高射砲119である。航空が58パーセントで軍の主力は航空であった。歩兵は18パーセントに過ぎない)
 陸士を卒業して原隊に戻る。多数の中尉、大尉が部隊に溢れていた。日露戦争末期の増員による。明治38年には18期920名卒業、19期生1068名が卒業する。その前後を見ると17期363名、20期276名である。(日露戦争後士官候補生の数800人体制が取られ、22期721名、23期740名、24期734名、25期741名、26期742名、27期761名であった。28期から中学出身者の数が減らされてゆく。28期は前期より100名少ない採用であった)昭和3年7月卒業の40期225名、41期239名、42期218名(中学出身者74名でもっとも少ない)43期227名である。(昭和2年熊本幼年学校、同3年広島幼年学校が廃校になる。昭和の不況とともにに軍縮の嵐が吹きまくる。昭和4年浜口内閣の緊縮財政政策で世間の不況は加速される)大正5年12月に少尉に任官する。一期先輩の広安壽郎少尉に世話になる。昭和17年10月25日第2師団歩兵16連隊長として広安大佐はガダルカナルで戦死される。(ルンガ飛行場奪回第2次夜間強襲戦にムカデ高地西側から突進したが戦傷者が続出して失敗。戦死後少将となる)59期の古宮慶一君の父、古宮正次郎大佐も陸士28期で第2師団歩兵29連隊長としてガ島ムカデ高地で戦死される。
 父周一中将の手記によれば、隊付将校は不勉強にして旧態以前たる教練を繰り返すとある。将校は任官後、読書と一切縁を切るというのが一般風潮であった。参謀本部文庫係りから聞いた話としてよく勉強されたのは建川美次大佐(陸士13期・中将・参謀本部第2部長、第1部長・駐ソ大使)渡邊錠太郎大将(陸士8期・参謀本部戦史課長・第4部長・教育総監・2・26事件で暗殺)、塚田攻中佐(陸士19期・参謀本部作戦班長・第3部長・参謀次長・昭和17年12月飛行機事故で殉職・大将に昇進)四手井綱正少佐(陸士27期・中将・参謀本部編成動員課長・第1部長・昭和20年8月18日同乗のチャンドレ・ボーズとともに飛行機事故で遭難死)らであった。宮崎中将も参謀本部第4部長、第1部長も歴任されよく本を読まれたようである。(「生涯勉強」だとつくずく思う)
 大正中期になると好景気にあふられ船成金が生まれ、町は華奢遊興の気風が瀰漫。ロシア革命の余波で過激思想が浸潤、反面大戦終結を転機としてデモクラシー思想が風靡した。軍人蔑視の風潮が秋田まで伝わり、将校の士気は沈滞していったという。少、中尉の暮らしは大変であったが、それでも遊ぶ時は秋田の一流の料理屋を使った。このころ秋田には芸者500人、人力車も同数あった。
月給は少尉43円50銭、中尉73円50銭であったと記録されている。(当時のサラリーマンの月給が3、40円である)
 大正12年2月陸士予科の区隊長(陸士37期と39期)となる。所属した第7中隊の中から優秀な生徒であった村中孝次、菅波三郎、渋川善助が2・26事件に参加した。(村中は処刑され、菅波は禁固刑になる。渋川は陸士予科では恩賜の銀時計を受けたが、陸士卒業を目前にして上官と衝突して退校となる。明治大学法科を卒業後、右翼団体に関係、2・26事件で処刑される。37期では
香田清貞、大蔵栄一が参加している)親泊朝省生徒も37期である。38師団参謀としてガダルカナルで奮戦、その後大本営報道班員として活躍し、昭和20年9月2日降伏文書調印の日、妻子3人とともに自決した。
 39期の区隊長時代、同期の長 勇も同じ中隊の区隊長をしていた。沖縄32軍参謀長として牛島満軍司令官(陸士20期、陸士校長・大将)とともに自決された。長区隊長は義太夫を語り、玉突きが上手で、よく賞品をかせいできたという。
 大正13年12月陸大に入学する(陸大39期)。陸大の試験は筆記試験の後の再審が厳しいといわれる。80名の中から40名を選ぶ。再審で手厳しく試験官からやられた受験生が合格したといわれる。学生として尊敬の念を抱いた教官4名の名前を挙げる。桑木崇明大佐(陸士16期・砲兵・中将・参謀本部演習課長・第1部長・第110師団長)。藤江恵輔中佐(陸士18期・砲兵・大将・陸大校長・西部軍司令官・東部軍司令官・第12方面軍司令官)下村定少佐(陸士20期・砲兵・大将・参謀本部第4部長・第1部長・陸大校長・西部軍司令官・陸軍大臣兼教育総監)石田保政少佐(陸士23期・歩兵・参謀本部戦史課長・昭和11年死去、少将)。(4人のその後の歩んだ足跡を見ると、宮崎陸大学生の人物を見る眼は確かなものがあると敬服する)なお石原莞爾教官(陸士21期・歩兵・中将・参謀本部作戦課長・第1部長・第16師団長)については「石原将軍の功罪いかんと問われれば"功罪相半ばするも、後輩に及ぼした悪影響計り知れぬものがあった"というのが率直な答えである」と言っている。
 昭和7年8月陸大の教官になる。関東軍参謀転任の話もあったが「私が行けば関東軍と一体になってやります。関東軍の横暴を押さえることは出来ませんよ」と答えて沙汰止みになった。(宮崎中将は第17軍参謀長・陸大幹事・第6方面参謀長・参謀本部第1部長で終戦を迎える)
 宮崎忠夫君は「父は教育、軍略畑を歩んできて政治に関わってこなかったのがよかったのではないか」としみじみといっていた。(宮崎中将は昭和20年12月1日予備、復員省史実部長、昭和44年10月16日死去された。多くの「手記」が残されている。まとめて出版して欲しいと願う)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts.co.jp