2006年(平成18年)11月10日号

No.341

銀座一丁目新聞

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花ある風景(256)

並木 徹

硫黄島の戦い「父親たちの星条旗」

 米軍の海兵隊総司令官は硫黄島を「聖地」とも「神聖な土地」とも呼ぶ。第二次大戦でこの島を巡って8万のアメリカ兵と2万の日本兵が36日間、激戦を繰り返した。島嶼作戦で日本軍の犠牲より米軍の犠牲が上回った唯一つの戦いであった。550フィートの擂鉢山に6人の兵士によって掲揚された星条旗は歴史に多くのドラマを生んだ。クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」(11月5日・東京丸の内ピカデリー劇場で見る)もその一つである。擂鉢山に翻る星条旗の写真を撮影したのはAP通信カメラマン、ジョー・ローゼンタールである。彼が撮ったのは2回目の国旗掲揚のシーンである。そのため「演出した」と非難され続けた。この写真は6人の兵士を英雄にし、戦争に嫌気をさしてきた米国民を一致団結させ、さらには大戦を勝利へと導くきっかけともなった。
 国旗を掲揚した6人のうち3人は戦死、3人が生き残り、英雄に仕立て上げられ戦費調達の戦時国債募集の一役を担わされる。その一人アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)は「250人の戦友たちが私と一緒に闘って、たった27人しか生きて帰られなかったのに、どうして英雄気取りなんかできるのだろう」と告白する。アイラはアリゾナ州ヒーラ・リヴァー・インディアン保留地、ビマ族の海兵隊員。ビマ族の文化は「個人が認められたがることはよくないこと」という。だからアイラは6人の英雄になることを最後まで拒んだ。日頃から物静かで無口であった。例の写真では左端で手がポールに届いていない人物がアイラである。
 次はジョン・プラッドリー(ライアン・フィリップ)。ウィスコンシン州アップルトン出身。通称ドク。原作「硫黄島の星条旗」(文春文庫)の著者ジェムズ・ブラッドリーの父である。志願して海軍に入り陸上戦を避けるため衛生兵となったが歴史上もっとも烈しい戦闘に巻き込まれる運命に会う。戦場では負傷者の手当て、負傷者の自陣までの担架運びと勇敢に働くが上陸して22日目に手榴弾で負傷する。ドクはその前に擂鉢山に登る。原作によれば登頂偵察を命じたのは海兵隊のチャンドラー・ジョンソン中佐である。ドクが所属する第三小隊に任務を与えた。ハロルド・シュリアー中尉に国旗を揚げるよう指示した。山の頂上に着いたのは、上陸5日目の2月23日(1945年)。国旗を立てる時、回りに集ったのはシュリアー中尉、小隊の選任軍曹ブーツ・トーマス、ハンク・ハンセン軍曹(ポール・ウォーカー)、ハンクは7日後戦死するが、二度目に写された写真でハーロン・プロックと間違えられて「6人の英雄」の一人にされてしまう。火炎放射手チャック・リンドーバーク伍長、ルイス・シャーロ海兵隊員の5人。その前にカーピン銃を持ったジム・マイクルズが坐る。これをカメラマンのルイス・ロワリーが連続撮影した。時に午前10時20分。火口のヘリまで登ってゆく偵察隊を下方の島から、沖の艦戦から見ていた多くの海兵隊員と海軍の水兵たちが歓声を挙げ、口笛を吹き、ヘルメットを振う。艦船は汽笛を鳴らす。まだ硫黄島は落ちていなかったが「擂鉢山占領宣言」であった。戦後ドグは故郷に戻り葬儀屋を開業、ただ一人上手く生き延びた。家族には硫黄島のことは黙して語らなかった。
 二度目の国旗掲揚は海軍長官ジェイムズ・フォレスタルの「擂鉢山の国旗をお土産にしたい」という思いつきから始まる。ジョンソン中佐はその話を聞いて掲揚された国旗を別のものとすり変える。AP通信のカメラマン、ローゼンタールが撮ったのが二度目に掲揚された国旗である。この時国旗の回りにいたのは優れた統率力で人望を集めていたマイク・ストランク軍曹(バリー・ペパー)、その後島で戦闘中味方の駆逐艦の砲弾で戦死する。19歳の伝令、レイニー・ギャグノン(ジェシー・プラットフォード)。ニューハンプシャー州マンチェスター出身。ドグやアライと違って戦時国債ツアーに積極的に参加し英雄に対する喝采や賛辞を最大限活用するが、必ずしもうまくいかなかった。
ハーロン・ブロック。テキサス州リオ・グランデー・ヴァリー出身。ハイスクールのフットボール部の最上級生全員と一緒に海兵隊に志願したスタープレーヤーだ。例の写真の中で旗ざおの根元で苦闘しており、その顔は見えない。母親のベルだけがその尻しを見て判ったが、国は2年間もハーロンと知らなかった。国旗掲揚の6日後に戦死する。
フランクリン・サウスリー(ジョセフ・クロス)。ケンタッキー州ヒルトップ出身。山上でフランクリンはアイラと国旗につける重さ百ポンド以上ある長いパイプを探し出す。
このマイク、レイニー、ハーロン、フランクリン、アイラら5人に両手に大量の包帯を持って通りかかったドク・ブラッドリーが手伝わされる。その日に最初に掲揚された国旗はジョンソン中佐に進呈された。ローゼンタールが撮った二度目の写真は、ピュリッツアー賞を獲得、世界中に喧伝される。
 戦時国債売り出しのキャンペーンの道具にされた3人を苦しめたのは苛酷な硫黄島の戦場での体験であった。映画ではすざまじいほどの戦場のシーンが出てくる。手榴弾で自決、あるいわ火炎放射器で全身火達磨の日本兵などが映し出される。思わず目をそむける。
 山上の一枚の写真は生き残った男たちの運命を変える。アイラは酒に溺れ1955年1月24日、過度のアルコール摂取による事故で死んだ。享年32歳。葬儀は数千人の人が弔問に訪れる盛大なものであった。レイニーは「少しの間有名人」として暮らし次には「並の人間」として暮らし1979年10月12日心臓発作に襲われ52歳で死ぬ。ジョンは小学校3年生の時の恋人と結婚し8人の子宝に恵まれた。過去を2、3個の段ボールに詰めたまま、1994年1月11日心臓発作で死んだ。享年70才。その死は世界中の打電された。「ジョンのおだやかで謙虚な性格と思いやりはみんなから愛された」と地元の新聞は報ずる。硫黄島はマンハッタンの3分の一、世田谷区の半分に満たない狭い島で、アメリカ側は2万5851人の犠牲者を出し、そのうち7千人が死んだ。日本側は2万2千人が戦死した。ジョンが残した1945年2月26日硫黄島からの手紙には「国旗掲揚がもっとも人生で幸せな瞬間でした」とあったという。

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