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小さな個人美術館の旅(38) 竹喬美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 笠岡は静かな町だ。むかしは商港として栄え、土蔵白壁の残る山側の寺町には独特の雰囲気があったというが、いまは瀬戸内海に面した岡山県の明るくのどかな商工業都市。駅前で乗ったタクシーに、「海岸を通っていって下さい」と頼むと、 「でも、海は見えませんよ。ここらはみんな埋め立ててしまいましたからね」 「山も見えませんねえ」 「大きな川もないんですよ。あるのは岡のような山ばかり。だから岡山というんです」 そういえば白い雲を浮かべたまあるい岡のそこここに、桃の花が美しく咲いている。ここしばらくは雪など降った記憶がない、雨も少なく風も吹かない、ここは全く気候温暖の地、家には雨戸も立てないのだという。潮の香のする町の、広い通りを行くと美術館があった。1982年、小野竹喬の画業を讃えて開館した市立美術館である。 備前焼きのレンガタイルで覆われた清楚な建物に入ると、和服姿の老婦人がふたり、枯山水の庭に面したロビーでなにやらひっそりと話しこんでいる。日本画壇に独自の画境を開き名誉市民となった小野竹喬を、土地の人は「竹喬さん」と親しげに呼ぶ。美術館のことも「竹喬さん」と言うのだそうだ。このふたりも、「竹喬さんで会いましょう」と言って待ち合わせをしたにちがいない。陳列室をゆっくり一巡したあと、こうして積もる話をしているのだろう。時々人が入っては来るものの、広い館内はしんと静まりかえって物音ひとつしない。年に七回の展示替えがあり、大勢の人が押しかけることもあるというが、今日は空いている。 1889年(明治22)、小野竹喬はここ笠岡で生まれた。「夢見るやうな海の音、段々畑を積み重ねた島々、それはお伽の国のやうに、甘美な世界」、と当時の故郷を回想している。家はもともと文具商を営んでいたのがラムネの製造に成功して、竹喬は小学校を卒業するとその手伝いに追われた。父は彼に商売をやらせようとしたが、彼はそれがいやでたまらない。俳人で、一時は竹内栖鳳門下の日本画家でもあった長兄のとりなしで画家への道に進むことを許されたのは竹喬十四歳の時である。はじめは京都の兄のもとに身を寄せて栖鳳塾に通っていたが、二年後には住み込みの塾生となった。 同期の同門に、少し後から入ってきた佐渡生まれの土田麦僊がいた。小さくて幼く見える竹喬と、粗野なほど元気で田舎丸だしの麦僊はたちまち意気投合した。合評会ではいつでも麦僊が一番、竹喬が二番だった。あるとき麦僊を抜いて竹喬が一番になったことがあった。絵は上手い下手ではない、感じる心だ、と師に言われて感激したという話を読んだことがある。何ものにもとらわれぬ自由な心で自然と語り合い描くという態度は、その後も竹喬芸術を一貫した姿勢だったろう。二人はやがて京都市絵画専門学校が設立されるとその第一回生となり、国画創作協会を設立するなど、麦僊が四十九歳で没するまで、生涯の友情を結ぶことになった。 美術館二階では、特別陳列の「小野竹喬欧州洋行素描展」が開かれていた。竹喬が麦僊らと渡欧したのは1921年、三十二歳の時である。このヨーロッパ行きは、三年前に文展を離脱して国展を創立した彼らの、やむにやまれぬ旅立ちであったらしい。ゴッホやゴーガン、ルノワール、なかでもセザンヌに強く心引かれていた当時のことを、竹喬は後にこんなふうに書いている。 「私はその頃、写実と日本画といふ問題に対して深く苦しんでゐた。それは主に日本画の素材と、私の求めようとする写実との間に、絶えず悲劇的な要因が介在して、私を苦しめた。そのことによって多くの矛盾に突き当るのであった。私が写実を突き進めば進むほど、その素材は矛盾だらけの、苦悩にも似た様相を示した。しかし、私は、それを進む以外に道を知らなかった。暗い道が続いた。……私はこの旅で、私の現在抱いてゐる苦悩を、どこまで解決できるのであらうか。何か新しい暗示を与へられるのではないだらうか。そんな望みを心の一隅に抱いてゐたのであった。」(「私の歩んだ道」) 「セーヌ河岸」「ピサの街」「ポンテ・ヴェッキオ」……。展示室には、そんな苦しげな述懐を読まなかったら、気のあった仲間との楽しげな旅だけを想像してしまうような、柔らかく、のびやかなスケッチの数々が飾られていた。はじめてヨーロッパの風景に接して、夢中になってスケッチしている様が自に浮かぶような初々しい作品ばかりである。この旅行は、竹喬にとってエポックとなったに違いなかった。彼は後に、こんなふうにも書いている。 「一年足らずの欧州巡礼を終へての帰途、船がいよいよ下関の海峡を通つた時、やつと懐かしい本土を見た喜び以外に、そこら一帯がまるで玩具のやうに、小さい景色だつたことに一驚したのであつた。今まで見たものはガッシリとした直線と立体とで組み立てられた景色であつたものが、急にクシャクシャとした平板なしかし明快な家や丘や色彩であつて、その線は直線よりも曲線、或は点によって構成されたものである。」(「海の美」) その後の竹喬は、ひたすらこの「ささやかな」日本の風景を描き続け、竹喬芸術前期の代表作といわれる「冬日帖」六点を発表するのは帰国六年目の三十九歳、「奥の細道句抄絵」の完成は実に八十七歳の時であった。同年、文化勲章を受章。その後も旺盛な意欲で制作を続けながら、ガンに倒れ、1979年、八十九歳で没した。 風景画家として、ひとすじの道筋だった。その一生は、故郷の海のように何の波風もない生涯のようにも見える。だが、自立った色彩も際立った一本の線もなく、一見ただ誠実に岡山周辺の自然を淡い色調で描いただけのように見えながら、えもいわれぬ清雅な趣きを漂わしつつ日本画における「実在」を表現した「冬日帖」から、思い切って大胆な構図と色彩によって前人未踏の新境地を拓いた「奥の細道句抄絵」までの歳月は、内に激しい内面の劇を秘めた静けさだったのではなかろうか。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |