2006年(平成18年)8月20日号

No.333

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安全地帯(153)

信濃 太郎

満州唱歌よ、もう一度

 久し振りに満州唱歌「わたしたち」を懐かしく聞いた。
「寒い北風 吹いたとて おぢけるけるような子どもじゃないよ まんしゅうそだちの わたしたち」2番は合唱であった。
 喜多由浩著「満州唱歌よ、もう一度」(産経新聞)についていた付録のCDで聞く。歌・中川順子、合唱・少年少女合唱団「みずうみ」であった。この歌の作詞者はわからないが、曲は園山民平である。数年前にこの本にも登場する岩波ホール総支配人高野悦子さんと「わたしたち」が話題に登り、「僕は『わたしたち』と歌うところを『ぼくたちだ』と歌った記憶がある』といったら、高野さんは「それは『わたしたち』よ」とゆずらなかった。私は小学校をハルピンで送っている。昭和8年4月(2年生)から昭和14年3月(6年生)までである。今考えると『わたしたち』は日常、男が使わない言葉だし、軟弱な響きをもっていると感じたからではないかと思う。だから私は当時『ぼくたちだ』と歌ったといまな信じこんでいる。
「待ちぼうけ」や「ペチカ」(ともに作詞・北原白秋、作曲・山田耕作)が満州唱歌であるのを始めて知った。大正12年に満州の東北部に住む日本人の子供達のために作られたと聞いてびっくりした。当時、満州には155万人の日本人が住んでおり、その子供達が満州の自然や風俗に親しみを感じられるようにと満州の教育者達が満州唱歌を作ったという。とりわけ満鉄が昭和12年満州国に行政権を移譲するまで教育に力を注ぎ、学校建設、教師の養成、教科書の編纂までした。「満州唱歌集」も作っている。大陸を舞台に自由闊達でユニーク出、先進的な教育が展開されたとある。そうかもしれない。大連2中のある先輩が「2中の校風は質実剛健・負けじい魂のほか自由闊達がある」と教えてくれた。
 大石橋生まれの高野悦子さんは唱歌「娘々祭」(作、村岡昊、曲・園山民平)が好きなようである。中学生時代、祭りの話だけは聞いた。大石橋の近くに迷鎮山という小高い山がある。ここが娘々廟のある本山で旧暦の四月十六日から三日間盛大な娘々祭がひらかれる。色々伝説があるようで、この娘々廟は良い人にめぐり会うえる、子供が授かるとう土着の信仰がある。祭りの日には十万前後の人たちで賑わうという。
 唱歌の思い出は尽きない。ハルピンの馬家溝にあった家にはペチカがあった。「雪の降る夜はたなしいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ むかしむかしょ 燃えろ ペチカ」満州の思い出は懐かしい。この気持ちは押さえきれない。だから大連2中の仲間は「となかい通信」(8月1日発行・B425頁)にこと寄せてよく集る。8月14日にも越中島に集り、発送作業した後、居酒屋で飲んで雑談をした。そこで、10月には伊豆に行く話がまとまった。もちろん忘年会の日程は既に決まっている。

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