2006年(平成18年)5月10日号

No.323

銀座一丁目新聞

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追悼録(238)

「グットナイト&グッドラック」

  ジョージ・クルーニ監督の映画「グットナイト&グッドラグ」を見る(4月26日・日本記者クラブ)。1953年アメリカで報道の自由が死のうとしていた。ウィスコンシン州選出、ジョゼフ・R・マッカーシー上院議員らの「赤狩り」が全米を恐怖に陥れていたからである。これに対してニュースキャスターとして真実を追い求め、不当な権力と戦ってアメリカに自由を取り戻したのがCBCのエドワード・R・マロー(デヴィッド・ストラサーン)とプロデューサー、フレッド・フレンドリー(ジョージ・クルーニー)ら番組のスタッフであった。タイトルの言葉は「シー・イット・ナウ」の番組の最後にマローが視聴者に向かっていうセリフである。
 ラドロビッチ事件から幕が上がる。1953年10月のある日、マローはフレンドリーに地方紙の切抜きを示す。そこにはミロ・J・ラドロビッチ中尉が突然、軍務を退くように求められた。理由は匿名の密告者が彼の父と姉が急進的団体と関係があると、たれこんだものであった。彼は辞表を出すのを拒否。これに対して軍は「機密保持の関係」から空軍を去るように命令を出したとあった。中尉の父親はアイッゼンハワー大統領に手紙を出し「私は一生個々の炭鉱と自動車工場で送ってきました。私のことはどうでもいいのです。ただ息子の正義だけは守ってください」と訴えた。マローとフレンドリーが空軍軍関係者と話し合ったが空軍の見解は聞けなかった。会社側はラドロビッチのテレビ放送を新聞に広告するのを拒否した。仕方なくマローとフレンドリーが1500ドルを個人口座から引きおろしてニューヨークタイムスに広告を出す。テレビで初めてマッカーシズムの暴虐さを具体的例をあげて示したものであった。付き合いがあったというだけで罪にするやり方、事実無根の嫌疑、あやふやな情報源、ヒステリー状態などを余すところなく視聴者に示した。この放送に賛辞が殺到した。一切のコメント抜きでマッカーシ―上院議員のドキュメンタリーも作った。このときも会社は番組広告の経費を拒否した。今度も二人は個人で負担した。槍玉に挙げられた国務省のリード・ハリスはいう「私が怒りを覚えるのは、連邦政府の有能かつ忠実な職員で私同様、法律と政府諸機関の秘密保持のために正当に排除されたものが何千人もいるからなのです」。マローの番組はすぐれたものであったが、経営陣は先行きを心配し、「論争の的となる主題を取り上げるたびに胃が痛むのはもう沢山だ」という始末であった。スポンサーのアルコアも降りてしまった。7年間にわたって200回近い放送を行った「シー・イット・ナウ」は幕を閉じた。モローが最後に言った言葉「テレビが娯楽や逃避に逃げ込んだらテレビは単に機械を詰め込んだ箱に過ぎない」日本のテレビ業界の現状を見るとき、今の放送人に「機械を詰め込んだ箱ではない」と言い切れるものが果たして何人いるだろうか。この日、日本記者クラブ10偕の試写会場は満員の盛況であった。
 マローは1965年(昭和40年)4月27日死んだ。相棒だったフレンドリーはロンドンからの帰路、大西洋上の飛行機の中であった。すぐにニューヨークのCBSに伝言を送り、すべての局と記者たちへに伝えて貰うようパイロットに依頼した。『マローが戦後ロンドンを去るときイギリス国民に向けて最後のラジオ放送の中で中でいった言葉 「諸君は言い訳する代わりに生き抜いてきたのです」は マローが後に残した宣言のようなものだ』と伝言の中に書いた。フレンドリーはまたいう「彼の死は放送ジャーナリズムの第1期黄金時代の終りを告げるものである」(フレッド・フレンドリー著・、岡本幸雄 訳「やむをえぬ事情により・・・」早川書房)。

(柳 路夫)

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