2005年(平成17年)9月1日号

No.298

銀座一丁目新聞

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安全地帯(119)

信濃 太郎

 みことおそかりき吾におそかりき

  たひらぎを/祈り給える/すめらぎの/みことおそかりき/吾におそかりき(高野鼎)

高野さんはいう。「敗戦の8月15日、この時まだ二人の子供が生きておりましたが、この歌は二人が亡くなった直後に詠んだものです。天皇陛下の一言によって、あれだけの大きな戦いがぴたっと終わったわけですが、それなら何故、もう少し早く終戦の詔勅を下しもらえなかったかとーこれは私の家族だけでなく、もしそうされたら、あんなに膨大な犠牲社を出さずにすんだのにと・・そのやりきれない悔しさを言葉に込めたつもりです」(江成常夫著「記憶の光景・10人のヒロシマ」小学館文庫より)。
「吾に遅かりき」が私たちの胸にぐさりと刺さる。国民学校高等科の教諭であった高野さんは空き缶工場で勤労学徒の指導・監督中に被爆する。妻と子供4人を失う。長男と次男は被爆しながらも生き長らえたが二人とも8月中にあいつでで死んだ。長女の行方は分からずじまいであった。高野さんは教職を退いた後修学旅行の生徒達に「ヒロシマ」の惨禍を語り、平和を訴えた。平成13年3月96歳で死去した。

 七日朝/川岸のむくろ/数知れず/声もかけずて/父とさがしぬ(室積 淑美)
室積さんは高野さんと「真樹社」の同人である。淑美さんは逓信局貯蓄部保険課に勤めていた20歳の時被爆する。「それはもう、たくさんの人ヶがむごい状況の中で亡くなって、それをこの目で見ておりますから、私は一生ね、犠牲になった方々を弔うために生きてもいい、そう本当に思ったこともありました。でも、それをせずに結婚して、女、男。女と三人のこどもを生みました。三人とも病気一つせずに成人しましたがね、行方不明のままの妹(四女、敏子・当時女学校1年生)への思いは、いつになってもなくなりません」(前掲の著書より)。
この本は1995年に出た「記憶の光景・十人のヒロシマ」の再刊である。原爆の惨禍が10人の置かれた状況下で解き明かされている。その地獄絵図はすざましい。色川大吉さんが解説で「この本を英訳してまずアメリカ人に読ませたいと切に思う。それから核保有国の国民にも見せたいものだと」という。私も読んでいてそういう思いにかられた。また原爆を開発した物理学者らが「標的を民間人が住む都市とせずに、たとえば東京湾のような近海で」と米政府に勧告したとある。私の聞いた話ではノーベル物理学賞を受賞したアメリカの物理学者、ウイリアム・ショックレーは「原爆を富士山の投下したら効果的である」と時の大統領に手紙で進言したといわれる。この無差別大量破壊兵器を今なお作り、実験を繰り返し、保有を誇示する国が存在するのは、人類がいかに愚かな動物であることの証佐である。

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