2004年(平成16年)9月1日号

No.262

銀座一丁目新聞

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追悼録(177)

梶山季之さんの思い出を語る

  池島信平対談集「文学よもやま話」(下)(文芸春秋・昭和49年2月刊)を読んでいたら懐かしい梶山季之さんとの対談が出てきた。そこで「ルポ・ライター」は文春の田川博一さんの、「トップ屋」は週刊朝日の扇谷正造さんの造語であることを知った。どうも名編集者は造語づくりがたくみらしい。
 昭和34年、文学青年の梶山さんはトップ屋として創刊されたばかりの「週刊文春」にのりこんだ。この頃は週間誌ブームで昭和31年2月にでた「週刊新潮」を皮切りに33年に「週刊明星」「週刊大衆」34年に「朝日ジャーナル」「週刊少年マガジン」「週刊現代」「週刊文春」など週刊誌が続々と発刊され、その数80点をこえた。国民の生活のリズムが一週間刻みに短縮されたからだといわれる。毎週の總発行部数は1200万部と推計された(総理府調べ)。「サンデー毎日」が4月26日号で156万7000部を発行する新記録を作った。これは33年11月皇太子妃として正田美智子さんが内定して起きた美智子妃ブームのおかげであった。編集長は中山善三郎さんであった。
 梶山さんは「週刊明星」「週刊文春」に創刊時よりルポ・ライターとして関わり週刊誌のトップ記事を書きまくった。トップ屋といわれる所以である。あるとき、毎日新聞社会部でともに苦労した石谷竜生君が「梶山さんと会ってくれませんか」といってきた。皇太子妃取材の裏話を聞かせてほしいという。聞けば石谷君と梶山さんとはともに朝鮮生まれで中学も同窓であった。そこで偶然に皇太子さまと直接電話で話をする羽目になったいきさつを語った。「それは面白い」と聞いてくれた。学友から皇太子さまと美智子さまはしばしば電話で話をされてい るという情報が入った。皇太子さまがご自分の意志を相手に通じさせようと努力されたのである。ある夜、正田家と東宮御所がともに通話中のときがあった。宮内庁詰の清水一郎君が正田家へ私が東宮御所へ電話をかけつづけた。四、五十分たった頃東宮御所の電話が通じた。なんと出た電話の主は皇太子さまであった。あわててしまい、たった一人しか名前を知らない黒木侍従を呼んでいただけませんかとお願いした。今考えてみると、もっと質問する事があったはずである。絶好のチャンスをのがしてしまった。だが、皇太子さまの気持ちは十分分かっているのだから聞かないのも礼儀かもしれなかったとも思う。もちろん、正田家の電話も通じた。この話を梶山さんが書いたか記憶にない。梶山さんは大変活躍され、「李朝残影」が49回直木賞候補(昭和38年)となったり、文壇所得1位(昭和45年5月)になられたりした。まだ働き盛りだというのに昭和50年5月、取材先の香港で客死された。享年45歳であった。

(柳 路夫)

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