2004年(平成16年)9月1日号

No.262

銀座一丁目新聞

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自省抄(4)

「この命ある限り」

池上三重子

 7月12日〈旧暦5月25日〉月曜日 快晴

 梅雨が明けたらしいと気象庁の発表。昨日の午前のこと。
 聞いただけでパーッといっぺんに新世界の出現ヨ・カビ臭いだのジメジメだの身勝手那人間。のどもと過ぎれば何とや。さまざまの恩恵をうち忘れてごめんよ梅雨さん。
 自然界の生きものは敏感。熊蝉はもう幾日も前からワーシワーシと一生懸命。いのちをかけての大合唱。私もいのちをかけて聴かなくちゃあな。
 聴覚は敏感。超敏感よ。意識がのこのこ後を追う。おもしろや!おもしろや!!
 雨の音・・・朝立ち夕立歓迎よ
 蛙の合唱。蝉の合唱も歓迎よ。
 天然の音楽よ。永遠の音楽よ。

  空にさえずる鳥の声
  峯より落つる滝の音
  大波小波どうどうと
  響き絶えせぬ海の音

 よみがえる「美しき天然」を口ずさめば、女優乙羽信子さんの面影が彷彿する。
 百万ドルのえくぼ!のキャッチフレーズのもと、宝塚歌劇団からデヴュー。一世を風靡した寵児・乙羽さんとのご縁は終生のものであった。乙羽さんがさしのべて下さった絆であった。驚きであった。感激だった。頭が垂れた。
 思い出をたどろう。
 始まりは昭和三十九年の私の離婚。母と二人の仮寓のくらし入りを乙羽さんに知らせる手紙が基点。基点の以前にすでに「亜麻色の髪」が原作の、日本教育テレビ(現テレビ朝日)放映のドラマ「この命ある限り」の主演女優が乙羽さんだったのである。
 相手役は伊藤雄之助さん。
 脚本・高橋玄洋さん。
 演出・山本隆則さん。
 配役を乙羽さんがお断りなら八千草薫さんと、その承諾もえられていたと後日知る。 
 乙羽さんは当時斯界にときめくお方。もしノーであったら?続く「妻の日々の愛のかたみに」もご縁がなかったことになる。
 僥倖の結縁であった。
 乙羽さんは芯からいい方であった。
 誠実な透明感が一瞥こころに迫った。
 私のために心を尽して頂いた實感はむろんだが、その心の底流にあたたかい人間らしい味わいが、湧井のように湛えられていたのである。人間らしい味わい?それは神の賜った天与の資質というものではなかろうか。
 乙羽さんは四度おめもじした。
 柳川の母との仮寓において二回。 
 天草における二回。
最後となったのは「釣りバカ日誌」ロケで長崎の五島への行きがけであった。大きい西瓜がみなさんへのおみやげであった。そのときお好きな歌は、と私は問うた。言下のお答えが先記の「美しき天然」であった。
 天草の寮の個室が私に与えられていた。
 部屋は海に向っていた。
 対岸は有明海をへだてて島原半島。よこたわる島の起伏はあたかも釈迦の涅槃像。釈迦を生んだインドのコーサラ国の首都サーヴァッティ。カビラヴァツーウのカビラ城の王子として誕生。煩悩に苦しむ人間を救済したい願望はついに出離。苦行六年のはてに成道。ゴータマ・ブッダの行脚が始まる。
 八十歳まで犀の角のようにひとりで歩めと仏のおしえが北インドに広まった。いのちの限りないさい果ては!?穢土が浄土に苦が楽に変貌。全肯定の世界観となり沙羅双樹の花のちる下で永遠のねむり。とじられた眼はふたたびひらかなかったが、説かれた法の道はれんめんと現代の日本にも健在である。仏道!!
 島原半島のかたどる寝釈迦像は乙羽さんにもみえたはず・・・・
 乙羽さんの瞳は黒曜石ー名にし負う宝石はとても乙羽さんの双眸にかなうまい。吸いこまれるようなこの世のものとも思われぬ高貴な漆黒の深淵!?乏しい私の語彙とつづりの範疇には、とうてい取り込めそうもない瞳であった。
 乙羽さんへの思い残りが二つある。
 一つは、美しき天然ですよ。とおこたえのさいにどうして歌声を所望しなかったか。
 一つは産もうか産むまいかと苦悩の末、ついに二者選択が捨と決められたこと。「身も心ささげ尽くしました」
 新藤兼人監督は仕事の鬼・仕事の夜叉。その無類の一途さにみずから身を投げかけずにいられなかった乙羽さんであった。しかし節度きびしい乙羽さんはあえて日陰の存在を自身に課せられた。潔らかに美しい忍従の花と愛しまずにいられないかたちであった。
 新藤兼人監督の強靭な意志によるものであった。
 もし乙羽さんが自分の意志をおしとおされていたらと思う。その二世三世が今ごろお二人の血脈をいきいきと社会還元化していられるかも。
 乙羽さんが逝かれてから十年。同年齢の私はまだ生きている。おめおめと存(ながら)えている。憧憬の死は発病の荷、三年後からの祈りというのに。
 祈りは切望。切望は更なる切望を生む。

   露の世は露の世ながらさりながら

 俳人一茶は愛児さとの夭逝を嘆いた。
 存得るのは辛い。愛別離苦の人間苦をかさねることに他ならない。生別も死別も私は苦しむ。今春も一人の職員の退職を見送った。疾病の事実を目の前に知りつつも衝撃をこらえる苦を刻印することになった。 
 私は西瓜が大好きであった。 
 今は食べたくない一品になっている。 
 乙羽さんと一期に夏のおみやげのす以下は大きかったなあ。
 母よ!
 今夜も夢見にお顕(た)ちください。
 お待ちします。



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