2004年(平成16年)1月1日号

No.238

銀座一丁目新聞

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追悼録(153)

青木彰君を偲ぶ

  元産経新聞編集局長、青木彰君(平成15年12月16日死去、77歳)にはなんとなく親近感を抱いていた。海兵75期で、大連2中の同級生、山田豊君、栗山五郎君(いずれも故人)湯下賢君らと同期生であった。私は陸士に進み、戦後同じジャーナリストになり、同じころ編集局長を務めたからである。青木君の古希祝いに出版した「岐路に立つ日本のジャーナリズム」(日本評論社)には一文を寄せた。
 彼の父親がミッドウェー海戦(昭和17年6月)で沈没した航空母艦「赤城〕の艦長、青木泰二郎大佐(海兵41期)であるのを澤地久枝さんの「滄海世眠れ」(毎日新聞刊・二)で始めて知った。青木艦長は艦の運命を知ると、まず第一にパイロットを退避させた。この海戦で戦死した搭乗員121名中「赤城」の搭乗員の戦死者は僅か7名に過ぎない。艦長は搭乗員養成に時間がかかるのを知っていたからである。予科練の教育制度を独立させ土台を作った人といわれる。青木艦長は乗員の全員がすべて退避したのを確認して退艦した。このころ艦長は艦と運命をともにするのが不文律であった。生き残るのは不名誉とされた。その場の状況、艦長の信条によって生き長らえてもよいと私は思う。昭和18年12月、海兵に入った青木彰君は上級生から「青木艦長の息子か」とよく鉄拳制裁を食らった。若い教官からは「お父さんは立派だ」といわれた事もあるという(前掲の書より)。青木大佐は敗戦のとき、朝鮮の元山航空隊司令であった。戦後は多くを語らず71歳でこの世をさった(昭和37年11月)。
 彼と見解が大きく違った事が一つある。昭和24年7月4日、国鉄総裁下山定則さんが常磐線綾瀬駅付近の線路上で轢死体で発見された事件である。彼は最後まで「下山さんは殺された」と思い込んでいた。私は「自殺」が真相に限りなく近いと信じている。青木記者は東大でラグビーをやっていた関係で医学部の先輩に頼み込んで解剖室にもぐりこんで下山さんの遺体の解剖をみている。古畑種基博士の解剖所見は「死後轢断」であった。彼はその所見を引きづったとしか思えない。「新聞との約束」―戦後ジャーナリズム私論(NHK出版)で下山事件に触れていたので、彼に私の見解を伝えた。下山事件では私は現場に一週間仲間の記者とともに付近の聞き込み取材にあたった。「事件は捜査がきめるもの。法医学は単に捜査に一資料を提供するに過ぎない。下山捜査は明らかに自殺を指している」。だが同意はえられなかった。立派なジャナリストであった。いずれまた機会があったら青木彰君のことを書きたい。

(柳 路夫)

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