2004年(平成16年)1月1日号

No.238

銀座一丁目新聞

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静かなる日々
─ わが老々介護日誌─

(22)
星 瑠璃子

  9月18日
 久しぶりのお天気。透き通るような秋の陽射しが爽やかで、この間までの猛暑が夢のようだ。まったく今年の夏は暑かった。これまで経験した夏の中でいちばん暑かったのはやはりインドの夏だが、40度を超える気狂いじみたその暑さをたびたび思い出した。そんななかで、母を呆けさせたくない一心で私は戦った。この先また何が起きるかは分からないが、私たちの戦いは確実に終焉に向かっている、と思う。
 午後、隣に住む兄嫁が来てくれて、これから毎週水曜日の午後は母に付き添ってくれるという。いまさらの感なきにしもあらずだが、母のいちばん大変だったときには兄夫婦は前々からの予定でヨーロッパ旅行の最中だったのである。来週からは週2回のヘルパーさんがもう1回来てくれることになり、足立さんもだいぶ楽になるだろう。
 今日の母は終日5点満点だった。「時間が経てば必ずよくおなりになるわ」と、折にふれて親友が励ましてくれた通りになった。彼女も退院後の父上がそのまま呆けてしまうのではないかと密かに心配した時期があったのだそうだ。どうかこの状態がこのまま続いてくれますように。
 母と義姉が楽しそうにおしゃべりをしている間に、久しぶりの庭仕事。夏の間ベランダの藤棚が涼しい木陰を作ってくれていたのを、植木屋が来るのを待てずに半分ほど伐り落とす。1回で片付けたかったのだが、「疲れ過ぎないでちょうだいよ」と母がさかんに心配するので、残りの半分は翌日に回す。

 9月19日
 S 病院の眼科と整形外科へ。まずケンちゃんを連れて猛スピードの自転車往復で病院の番号札を取り、家へ戻って今度は車で母を連れて行くという段取りである。この方法だと、母は延々と待たされることなく診察を受けられる。
 まず整形外科でレントゲン撮影。写真で見る人工の骨は見事にくっついて「百点満点」とのこと。眼の方もだいぶよくなった。それにしても、95歳の今日まで白内症にもならず、眼鏡を作り直したこともない母はなんと幸運な人だろう。昼少し前に帰宅し、午後は藤棚のやり残しを終える。しだれ桜やコブシに絡みついた生命力あふれる蔓と格闘すること3時間。疲労でぶっ倒れそうになる。体力はもう限界に近い。
 
 9月21日
 母のお散歩を終えてから、門から玄関までのアプローチに玉龍を植える。はじめは40株ほどの予定だったのだが全然足りなくて、とうとう100株も植えてしまった。夏の庭を秋の庭に作り替えるのは毎年の仕事だが、今年は長いことほったらかしにして、ずいぶん遅れてしまった。腰が痛く立っているのもやっとなのに、午後2時、ひと休みもせずに康雄の墓参りに行く。康雄の墓は龍隠寺という古刹の、丈高い杉の木の下にある。遠いところなので帰ると8時を回っていた。

 9月22日
 光が丘公園。母のスケッチは色がどんどん明るくなり、とてもきれいだ。来る人がみな
「これがおばあちゃまの絵?」と驚く。
 帰ってから花壇の整理。3つある花壇のうちの1つ、ピンクのベゴニアを始末して黄菊を植えると庭は見違えるように秋らしくなった。「きれいねえ」と母はベランダまで出て来て子どものように手を叩きながら言う。「瑠璃子ちゃんが藤棚を始末してくれたから、ほら、ここからでもあんなに青い空が見えるわ」。夜は冴え冴えと月が渡って行くのを眺めていた。明日は兄たちと青山墓地へ父や祖父母の墓参りに行く予定。
 
 9月23日
 とうとうダウンしてしまい、お彼岸の墓参どころではなくなった。母はお散歩にも行けず、終日あまり機嫌がよくなかったらしい。午前中を戸外で過ごすこと、夢中になってスケッチをするということがどんなに大切な時間かを改めて痛感。こちらが倒れてしまったりしては駄目なのである。
 けれども久しぶりに自室に引きこもり寝たり起きたりで過ごしたおかげで、気にかかっていた手紙を何通か書くことができた。まずは瀬戸内寂聴さんへ全集をお送り頂いていたそのお礼。以前に私がやっていた雑誌に連載し、長らく中断されたままになっていた「釈迦」を、瀬戸内さんはこの度の『瀬戸内寂聴全集』(全20巻・新潮社)の最終回に、書き下ろしという形で見事に完成させたのである。そのお祝いをかねた手紙である。
 もう1通は、作家大庭みな子さんのご主人、大庭利雄さんからお送り頂いていた『終わりの蜜月─大庭みな子の介護日誌』(新潮社)への、これもお礼の手紙。なかなか書けずにいたのをようやく果たしてほっとする。
 『終わりの蜜月』は、看護とリハビリに明け暮れた利雄さんの6年間の克明な記録だ。みな子さんは小脳出血で入院中に脳梗塞を起こし半身不随になってしまったのだが、倒れてまだ間もない頃の利雄さんの言葉に次のようなものがあって、心打たれた。
 「……病院に通う道を歩きながら、これから先のことを考えあぐねていたときに、『そうだ、みな子と一緒に死ねばいいのだ』、ふとそう思いついたときに不思議なほど気が楽になった。今すぐ心中しようということではない。みな子がこのように廃人同様になったいま、利雄も自分の人生を放棄して、すべてみな子と同じ道を歩くことに腹を決めればいいのだ。自分を殺すこと、自分の生活、いろいろやりたいことの望みなどをすべて放棄することだ。彼女のためだけに生きればよい。こう思うだけで、不幸は幸せへと急展開するから不思議だ」。利雄さんの献身的な介護でみな子さんは奇跡的に快復し、二人で青春時代を過ごしたカナダへ旅立つところでこの本は終わっている。

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