安全地帯(52)
−同期生の絆かたし−
−信濃太郎−
陸士59期の同期生、勝野高成君について書く。ともに兵科は歩兵だが、知り合ったのは戦後である。我々の年代は昭和20年8月15日どこにいたかでその人生が大きく変わる。我々歩兵科の士官候補生500余名は西富士の演習場で卒業前の最後の演習に明け暮れしていた。終戦の詔勅を演習場の兵営前で聞いた。嗚咽するものが多かった。軍人としての志が中途で挫折、180度転換を余儀なくされたわけである。
勝野君との出会いは九州である。昭和56年6月、毎日新聞西部本社の代表で北九州市に赴任したとき、勝野君は博多の西日本ビルの専務(間もなく社長になる)であった。彼の話は面白かった。恩人に最後まで信義を尽くした話。自社ビルの地下に地下鉄の駅を設置するまでのいきさつ。人とのつきあい方。新聞記者と違った生き方に感心した。もちろん、ゴルフ、麻雀をして遊んだ。麻雀は強く、隙のない勝負師の打ち方あった。スポニチの社長の時である。バルブ崩壊の寸前、「株の様子がおかしい。気をつけた方がよい」と忠告してくれた。おかげで会社保有の株を売り払い、被害を最小限に止めることができた。
積極果敢、行動の人である。ニュージランドにビルを建てたり、ニュージランドの青年たちを福岡の企業で研修させたりしている。3年前から在福岡コロンビア名誉総領事である。本来名誉総領事はその土地の著名志がなるのが常識である。勝野君が選ばれたのは、リカルド・グティエレス駐日大使がたまたま知り合った勝野君の人柄と企業人としての手腕に惚れ込んだからである。さきのコロンビアの地震のさい、彼は多額の義捐金を送っている。誰もができることではない。つい最近も終生の事業としている福岡・甘木市のシルバータウン「美奈宜の杜」に駐日コロンビア大使夫人、ルス・エステラ・シェラさんを迎えて「女性懇親会」を開くなど国際交流に地味な努力をしている。
彼が秋月みなぎの名前で作詞した演歌がある(歌山田寛一)。「男どうしのぬくもりに 恋と言う字に目をつぶり 心にきめたあの誓い 誠一字を胸に秘め 知るや孔明五丈原」この一節に勝野君の心意気がよくでている。 |