2003年(平成15年)8月10日号

No.224

銀座一丁目新聞

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競馬徒然草(23)

−乃木大将の馬− 

  乃木大将の愛馬は、「寿(す)号」という名のアラビア産の馬(アラブ)だった。ある人物から贈られた格別な馬である。その経緯からして他に例がなく、馬の物語としても興趣に富んでいる。話は約100年前の日露戦争(1904〜1905)に遡る。
 乃木大将は、軍司令官として旅順攻撃を指揮した。これは戦史に残る激戦で、双方に多大の戦死者が出た。乃木大将も、2人の子息を失ったほどだ。激戦の末、ロシアのステッセル将軍が降伏勧告を受け入れ、戦闘は終結。水師営で、乃木大将とステッセル将軍との会見が行われた。いわゆる「水師営の会見」で、これは唱歌にもなったほどだ。
 この会見は、双方が互いの健闘を称え合い、なごやかなものだったという。ステッセルは、日本兵の勇敢を称えるとともに、このような壮絶な戦闘は2度としたくない、と語った。今後日露間で再び戦闘の不幸を見たくない、とも語っている。ステッセルは、乃木大将の武人としての誠意を感じ取っていた。これには、会見の前日のことに触れるる必要がある。会見の前日、乃木大将は代理人の書記官を訪ねさせている。「陣中のことで珍品もないが」と、ぶどう酒やシャンペンを届けさせている。ステッセルは感激した。そのとき、乃木大将の2人の子息が戦死したことも知り、心を痛めてもいた。会見が平穏に進んだのも、十分に頷ける。ステッセルは、互いに無事に帰国したならば文通を交わそう、と約束したとも伝えられる。
 この水師営の会見のとき、ステッセルが1つの贈り物をした。自身が乗っていた愛馬である。日本馬より遥かに馬格の優れたアラブの牡馬だった。乃木大将が乗っていた馬は、小型の日本馬であったから、よほど貧弱に見えたのであろう。乃木大将は快く受け入れ、この馬に、ステッセルの頭文字「ス」をとり、「寿(す)号」と名づけた。白い葦毛の美しい馬で、見た眼にもひときわ目立った。凱旋後、乗用馬として大切に扱っただけでなく、種牡馬として馬匹改良にも貢献する。今、東京・赤坂の乃木邸の敷地には、煉瓦造りの馬房が保存され、「寿号」の名も留められている。

(戸明 英一)

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