毎日新聞東京本社の社会部長だった杉浦克巳さんがなくなった(2月2日、死去、享年87歳)。これで筆者が戦後つかえた社会部長9人すべてが鬼籍に入った。それぞれに思い出がある。「かっちゃん」の愛称で部員から慕われた杉浦さんは温厚な人柄で無駄口をたたなかった。それでいてちゃんと物事の本質を突く発言をされた。若いときから名文家で知られた。杉浦さんが社会部のデスク時代、写真説明を書いてだすと、「もうすこし・・・」と何度も書き直しを命ぜられた。「俳句をやるといいよ」とも進められた。
昭和33年8月から社会部長で、60年安保の時、部員と共に徹夜しながら見守っていた。デスクは三木正さん(故人)であった。他紙はともかく、毎日新聞は6月15日の夜の国会乱入、全学連、警官隊と衝突、重軽傷者400余、女子東大生死ぬ・・・事態をきわめて客観的に報道した。翌日、この新聞を見て学生たちは絶賛した。他紙が学生たちを暴徒ときめつけていたからである。
逆に杉浦部長は編集局長から「アカが作ったのか、この紙面は・・・」と怒られた。杉浦さんは愚痴ひとつこぼされなかった。まもなく、サンデー毎日の編集長に転出された。
「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年―によると『この日の紙面は各紙で随分調子が違う。荒瀬豊著「果たして言論は自由であるか」によれば、朝日、東京、読売は全学連の国会乱入と「暴力化」に重点が置かれ、毎日、産経、日経は「国会デモついに死者をだす」など犠牲者がでたことをクローズアップしている』とある。
論説副委員長を辞められたあと、夕刊のコラム「近事片々」を担当された。折々のニュースを正宗の名刀の如く、時には鋭く風刺し、時にはえぐり、時には本質を突き、見事な太刀裁きをみせられた。その後この、コラムの担当者が何人か変ったが、いまだに杉浦さんの右に出る記者はいないと私は思う。
昭和52年、定年を迎えた杉浦さんは郷里静岡県新居町に移られた。そこで『艦砲射撃のもとで』−新居の戦争−を出版された(平成9年1月)。これは戦死した仲間や戦争で失った弟、義弟へ手向けるものがあるとすれば、『戦争を語り継ぐ』以外にないと考えられたからである。
この本を見ると、戦争中杉浦さんと私は接点があった。杉浦さんは昭和19年6月に招集され岐阜の68連隊に入隊されている。私は20年2月に同連隊に士官候補生として隊付にいっている。杉浦さんと一緒に召集された9人は比島に行く途中撃沈されたり、レイテ島で戦死したりしている。病気で内地に返された杉浦さんだけが生き残った。このことが戦後生きること自体が後ろめたいようなしこりとなっていたという。淡々と物事を処理された杉浦さんにこのような心の蔭があったとはきがつかなかった。まことによき先輩であった。
(柳 路夫) |