2001年(平成13年)12月1日号

No.163

銀座一丁目新聞

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追悼録(78)

    枯葉弾く七十男の面映ゆる   悠々

 大連二中の友人、長谷川栄三君は七十歳でピアノをはじめた。二人の娘さんが嫁いで、家に残されたピアノと『格闘』したのが1993年(平成5年)6月。若い音楽教室の先生から「お年よりは大歓迎します」と誘われたとはいえ、立派である。根が器用な長谷川君はたちまち楽譜を読みこなし、肩こりもいとわず、レッスンにはげむ。ハ調・ト調・ホ調など変調に対する指の使い方もどうにかものにする。この音楽教室に秋の「ピアノ発表会」がある。
 若い先生はこともなげに言う。「勘所がよいので、枯葉などいかがですか。時季ものとしては素敵ですよ」。度胸の良い長谷川君「そうですな!」と軽く引き受ける。レッスンをはじめて1年5ヶ月である。ひそかに猛練習をはじめる。二中の伝統の負けじ魂がふつふつと沸き起こる。
 愈々演奏会当日、平成6年11月23日勤労感謝の日。正確な年齢を言うと長谷川君はこの時、70歳と9ヶ月である。ともかく、無事に弾いた。しかも暗譜のままである。その時の心境を『最後の鍵をたたき終えた時、その最後の響きだけが耳に入ってきた』と校友会誌「となかい」につづる。
 夫人和子さんや娘さん理恵さん、実可さんたちの感想が泣かせる。「ちゃんと弾けたよ。心持スロー気味とも感じられたが、枯葉はむしろスローの方がいいのよ」(「となかい」に長谷川君が書いた文章をト調で悠々流で編曲した)

     枯葉弾く親友逝けり11月15日  悠々

 長谷川君が今年8月24日夜、伊豆の山荘で倒れた。この日大連ニ中の全体の組織である光丘会の懇親会があった。その宴会が始まる一時間ほど前、彼と雑談していたところ、突然左耳を抑え、『痛い。この痛さは異常だな』といって横になった。私はそのシグナルを見過ごしてしまった。私がしたことといえば、水をコップにくんできてのませただけであった。後でわかったことだが、この時、第一回のクモ膜下出血があった。彼は元気で口もきけた。そのような病状にあるとはつゆしらず、そのままにしてしまった。宴会が始まる時間になっても姿を見せないので、部屋をのぞいてみて、その異常に気がつき、119番して救急車で病院に運んだ。救急車のなかでも、ニ度めの出血をしており、手術は難しい状況にあった。夫人の和子さんらの判断で手術をした。一時は医者が奇跡的というほどの回復をみせた。一ヶ月後、見舞いに行った時、まだ口は聞けなかったが、私だということはわかったようだった。手足の麻痺もなく、独り言も言うほどで、これなら大丈夫と安心した。和子さんや娘さんが大変であった。病院の近くに部屋を借り、ニヵ月以上も看護を続けた。その甲斐あって11月8日、自宅近くの川越の病院に転院した。これからリハビリをというところであった。不幸な事に15日、硬膜下出血を起こし、かえらぬ人となった。
 長谷川君には17回生の本部幹事、会計責任、光丘会副会長を無理してお願いしていた。われわれ同級生の中では一番頑健そうであった。シグナルを見落とした私にはもっと鋭敏な観察力があればという思いが胸を刺す。
長谷川栄三君、享年76歳であった。

(柳 路夫)

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