戦後、マスコミ界に身を投じ、活躍した陸士出身者は少なくない。毎日放送で活躍された真崎貞夫さん(57期・6月14日死去・78歳)もその一人であろう。
大阪で万国博覧会が開かれた時(昭和45年3月−9月)、真崎さんは常務として全国民放を一丸とした民放共同制作本部の実施本部長になり、開会式や閉会式の特別番組の総指揮をとった。行き届いた手配、準備、企画、見事な運営をみせ、絶賛された。広島幼年(42期)、陸士ともに恩賜であった真崎さんにしてみれば、それほど難しい仕事ではなかったであろう。
実は真崎さんは、京都大学を卒業した昭和24年4月、毎日新聞大阪本社に入社したが、58期以上の期の人たちは、職業軍人のパージにかかり、発行部数3万以上の新聞社にははいることができない。そのため、入社が取り消された。このとき、59期の平井一郎君と中正平君が入社している。真崎さんはやむなく、商社勤務のあと、パージのとけた27年4月に毎日に入った。配属された社会部の仕事振りについて、一年後に入社した北野栄三君(大阪幼年49期・大阪大学卒)の話によると、『仕事の早さ、要点を掴む的確な判断力。原稿を書くスピード、どの取材対象にたいしても不得意というもののない万能振りであった』という(8月1日毎日新聞社報)。
27年4月以降57期では細島泉さん、58期では長田達三さんが入社している。
その意味では59期は戦後、就職する際、恵まれた。 これには、隠されたエピソードがある。59期は、航空兵科が8月31日、地上兵科は10月10日それぞれ卒業する予定であった。敗戦直後、軍の上層部で59期を卒業させるかどうかでもめた。このとき、航空士官学校の徳川好敏中将(16期)が『降伏したドイツでは士官学校卒業生と在校生とではパージに差があるようだ。日本の再建を考えて、卒業させない方が日本のためになる」と発言されという。徳川校長は先見の明があったといえる。ドイツが降伏したのが20年の5月7日である。半年も経っていないのに、早くもそのような情報を掴んでいたというのは立派である。おかげで私も毎日新聞に入ることが出来た。東京本社には、同期生の開真君、奈良泰夫君、森川克巳君がいる。
論説委員のとき、ある役員が『牧内君、このフランス語訳してくれ』と持ってきた。『冗談でしょう。私は中国語とロシヤ語しかしりませんよ』『この前、真崎君がすらすらとやってくれたよ』『真崎と私とでは出来が違います』とやりとりしたことを思い出す。真崎さんは幼年学校のときからフランス語を勉強していて堪能であった。
真崎さんら57期生は昭和16年4月、予科に入校、9月に学校は市ヶ谷から朝霞へ変った。市ヶ谷には大本営陸軍部がはいった。17年10月、本科入校、19年3月航空が4月地上がそれぞれ卒業した。これまでの期と違って1000名を越すものが航空へいったということは、それだけ、戦局が緊迫していたということである。つまり、57期の航空は特攻要員であった。92名が散華。地上兵科でも第一線の小隊長として7百余名の戦死を出している。
真崎さんは毎日放送から毎日映像音響システムの社長になり、大いに腕をふるわれた。いま思えば、新聞のほうが向いていたような気がする。組織が大きければ大きいほど力を発揮する人物であったと思う。
(柳 路夫) |