2001年(平成13年)9月10日号

No.155

銀座一丁目新聞

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お耳を拝借(24)

-ひとりある記 1

芹澤 かずこ

 

 夫はプロの将棋指しでした。長年の飲酒で肝臓を悪くして何回か入退院を繰り返していました。将棋は頭脳ゲームですが、長時間の対戦にはやはり最後は体力が物を言います。すっかり健康に自信をなくした夫は、気弱に引退を洩らしていました。原稿を書いたり、たまには講演を引き受けたりして、のんびり読書三昧の生活を送りたいようでした。
 「パパとは反対に私は外へ出て見たいわ」
 専業主婦なら誰しも一度ぐらい思ってみる単なる憧れでありました。
 ところが、それから間もない昭和62年の12月の雪の朝、5度目の入院をした夫は、吐血が止まらずだんだんに意識が薄れて、昏睡のままあっけなくこの世を去ってしまいました。
 電話番くらいなら私にだって出来るかも・・・、30年のブランクです。いったい何ができるでしょうか。それでも敢えて外に出ることにしました。家にいて夫の写真に対座していたら、自分の看病の足りなさは棚に上げて、愚痴ばかりになってしまいそうでした。それでは夫も浮かばれないでしょうし、私の身も持たないと思ったのです。
 お嫁に行って女の子を産んだばかりの娘と、まだこれから嫁を迎えなければならないふたりの息子が残っていました。しばらくは父親の役目も果さなくてはならず、泣いてばかりいられなかったのです。かくて、夫の百ケ日をすませてから企画会社に職を得ました。
 そこに出入りしている出版社の勧めで、夫の闘病と思い出を綴った本を出すことになりました。生前、夫が原稿を書く時に口述筆記でよく手伝っていましたが、自分で書くのは全く初めてのこと。怖いもの知らずとは正にあの状態でした。
 『アンクルトムの小屋』を書いたストウ夫人は台所で書いたので、原稿用紙がケチャップのしみだらけだったと何かで読みましたが、私は事務所で電話番をしながら、あるいは深夜に夫の写真を前に涙でクシャクシャになりながら、書いては消し、消してはまた書き続けました。5ヶ月近くかかって、ようやく一周忌に間に合うように完成した『忘れざる優しさの証に』文園社刊)を目の当たりにして感じたことは、夫の死も含めて総てのことが遠い昔の出来事のようでした。
 思い出を手繰り過ぎたせいかも知れませんし、このような形で早い時期に傷口にメスを当てたことによって、少しずつ心構えができたのかも知れません。でも決して過去を葬ったわけではありません。夫のことは常に身近に感じています。ちょうど大事なお守りを肌身離さず持ち歩いているような、あの安心感に似ているのです。
女がひとりでいると結婚させたがる人がいます。かっては賑やかな家でしたから、寂しくないと言ったらウソになります。でも、誰にも気兼ねなく自由な時間が持てるのが、ひとり暮らしの妙味です。
 私は今、自分の書斎と呼んでいる部屋でクラシック音楽を聞きながら、もう長いことパソコンに向かって原稿に取り組んでいます。
「お茶をくれ」
「飯はまだか」
と邪魔されることもなく、学生時代に戻ってレポートを書いているような気分です。この気楽さだけはこの先も手放したくないものです。



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