靖国神社へ毎年、初詣する(平成13年1月10日号追悼録参照)。明治以来の諸戦争に戦没された先輩諸兄の御霊に祈りを捧げ、己を励ます糧としている。
もともと、靖国神社の祭祀の目的は、国に殉じた英霊を祭るにある。戦没者250万柱を合祀する。このうち215万柱は第二次大戦の戦没者である。
小泉 純一郎首相は「今日の日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれている」として終戦記念日の8月15日に靖国神社に参拝する」と明言した。
遅きに失したとはいえ、当然であり、賛意を表する。
靖国神社はわが国唯一の最高の「戦没者慰霊施設」である(本田 総一郎編著「ああ靖国神社」より)。これは紛れもない事実である。戦没者に慰霊の心を示すの首相はもとより国民にとっても当たり前である。
一部反対があるのは、首相や閣僚の参拝が憲法20条の「政教分離」の原則に違反する恐れがあるからである。しかし、戦後、靖国神社が果たしてきた機能をみれば、宗教団体性はきわめて薄いと言わざるをえない。
「ああ靖国神社」によれば、「今日、国民の圧倒的多数は『潜在的信仰』と戦没者遺族の『骨肉の情』に結ばれた純粋な『求心的信仰』に支えられている」という。そして、靖国神社は『宗教法人』の枠をはるかに越えて『社会の公器』であり、戦没者の悲劇を銘記し、その冥福を祈る『平和の象徴』であると言い切っている。
とすれば、首相や閣僚の参拝は政治的行事ではなく、神式行事とみてよいと考える。神式行事とは神前結婚、地鎮祭、上棟式等をさす。これらは日本古来の習俗であって、政治と宗教を合体させたことにはならない。もっと靖国神社が果たしている役割を知るべきだと思う。
さらに、近隣諸国から批判を招いているA級戦犯が『昭和殉難者』として合祀されていることに触れたい。東条 英機大将はじめA級戦犯を裁いた「東京裁判」自体勝者が敗者を裁いた報復的裁判として見直されている。当時、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥でさえ、「東京裁判は間違いだった」といっている。この問題は日本の独自の判断で処理すればよい。
小泉首相の参拝が近隣諸国を刺激すると懸念する向きがある。問題にならない。一国の首相が自分の国のために戦死した人たちをお参りするのは人間として、政治家としても当然のことではないか。参拝しない方が恥ずべきである。人倫にもとる行為である。どこの国の首相も国に殉じた人たちの慰霊に敬虔な祈りを捧げている。
昭和40年3月、日本に立ち寄った西ドイツ練習艦隊の艦長以下五十余名の士官候補生が参拝、戦没者の冥福を祈った。艦長は参拝前の記者会見で記者からの「靖国神社は政治問題化しているので参拝をやめたら」との質問に「それは日本の国内問題です。靖国神社の日本国戦没者に対してわれわれは多大な尊敬の念を持っている。貴国の戦没者に表敬のために靖国神社に参拝するのは当然です」と語ったという。
それから36年余、いまだに解決していないとは情けない。今後、近隣諸国から抗議がきたら遠慮なく「それは日本の戦没者を冒涜するものだ」と反論すべきで、けして軍国主義の復活とはつらながらないことを諄諄と説く必要があろう。
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