2001年(平成13年)3月10日号

No.137

銀座一丁目新聞

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花ある風景(51)

 並木 徹

 井上 ひさし作、鈴木 裕美演出の「泣き虫なまいき石川 啄木」を東京・新宿、紀伊国屋ホールでみた(3月2日・3月23日まで上演)。
 テーマに作者自身が当時悩んでいた問題が投影され生々しすぎると、長く封印されてきたと毎日新聞(3月1日夕刊)は伝えていた。井上さんと別れた西舘 好子さんの書いた本などを読むと、二人の夫婦のあり方は私の理解をこえる。それだけに井上 ひさしさんの心の傷は深かったのかもしれない。
 いつもの通り観客席は満員だった。すっかり井上ファンがねづいている。
 封印のとかれたシーンは六幕に出てくる。
 母かつ(銀粉蝶)が節子(細川 直美)に宮崎 郁雨との関係を問いつめる。そこへ、取り乱した金田一 京助(梨本 謙一郎)が飛び込んでくる。妻と役者の仲を疑って狂態のかぎりをつくす。赤門前での立小便、大切にしていたドイツ語の辞書を墨で塗りつぶす、大通りで叫ぶ、妻に「くそ婆」と怒鳴る、氷をおかずにご飯を五杯もたべる、妻の目の前で10円札を細かく千切る、市街電車のレールの上に大の字になり自殺を図る・・・まことに深刻な場面、観客席は笑いの渦。声を立てるお客もいる。
 一(高橋 和也)の父一禎(石田 圭祐)の京助に向かって言う言葉がいい。「時は何者にも裏切ることはない。女子の心には鬼と仏が一緒に棲んでいる。時がたてば、仏が生き残るもの・・・」
 何時見ても、井上ひさしの芝居は心に余韻が残る。それを味わいながら帰途につく。「この地球は涙の谷、喜びをどこから運んでこない限り人生は生きていけない」(朝日賞受賞の挨拶の言葉)。そうだと思う。
 井上ひさしが啄木にひかれたのは「はたらけどはたらけど わが暮らしらくにならざり じっと手をみる」という歌だそうだが、啄木の歌は本当に生きているとつくづく感じる。
 平成9年10月、神奈川県横須賀の海沿いの公園に一人の日本人の記念碑が立った。その除幕式のことである。在日米海軍司令官が短いスピーチをし、日本語で石川 啄木の歌を引用した。

 「ゆえもなく海が見たくて海に来ぬ こころ痛みてたへがたき日に」
 啄木が死んだのは明治45年(1912年)4月13日、数え27歳であった。それからすでに85年たつ。親日家の米海軍軍人とはいえとつ国の人に詠まれるのは嬉しい限りである(阿川 尚之著「海の友情」中公新書より)。

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