2001年(平成13年)3月1日号

No.136

銀座一丁目新聞

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追悼録(51)

 ふと、毎日新聞記者だった西堀 杜史著「信濃ふるさとの歴史」(甲陽書房刊)を手にした。その中に一茶の稲を詠んだ句があった。
  案山子にもうしろ向かれし栖かな

  売る俵たたいて見たる夜寒かな

  刈株のうしろの水や秋日和

  見る俵一つ残してとしの春

 ふるさと北信(上水内郡信濃町柏原)の静かな農村のたたずまいを歌っている。一茶の句としては珍しく、新鮮な感じがする。だが、どこか暗さがつきまとう。寂しさがただよう。
15歳の時(1778年)、江戸へ奉公にだされた。30歳前後で俳諧師の仲間入りして一人前になった。51歳(1814年)でふるさとへかえってきている。とすればこの四句は50代から60代にかけての作品である。今から180余年前ということになる。昔と今も故郷の風景はそう変ってはいまい。
 定年後に備えて作った私の丸太小屋も同じ郡の戸隠村にある。一茶は「これがまあつひの栖か雪五尺」と紹介したが、このところ、気候温暖化のせいか、雪は少なくなっている。北アルプスを間直に望み飯綱、黒姫、の山々に囲まれた村はいつも人もまばらで静かである。子供と会えば、見知らぬ私にでも挨拶される。
 一茶の句といえば、「我ときて遊べや親のない雀」があまりにも有名だ。6歳の時の作品というから驚きである。このほか
  雀の子そこのけそこのけお馬が通る

  名月を取ってくれろとなく子哉

などがなじみ深い。
 3歳の時、生母くにと死別、8歳で父弥五兵衛が再婚、10歳の時、異母弟仙六が誕生する。継母と異母弟とは生涯うまくいかなかった。その屈折した人生が俳句に投影されたとしても不思議なことではない。早く死に別れた母の面影が一段と深く一茶に刻み込まれているように見える。
 雀や子供たちによせる、並々ならぬ愛情は受けることの少なかった母の愛のうらがえしである。50歳になっても「亡母や海見る度に見る度に」と歌う。
 52歳になってはじめて28歳のきくと結婚、三男一女を生むが、いずれも夭折する。「薄倖の生」がどこまでも続くと複本一郎さんはその著「江戸俳句夜話」(NHK出版)で表現する。それでも、こんこんと詩情がわいてくる。

  蚤の迹それも若きはうつくしき

  蚤の迹かぞへながらに添乳哉

 この世を去ったのは文政10年(1827年)64歳であった。

(柳 路夫)

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