今手元に一枚のセピア色の写真がある。羽織を着て日本髪を結った年若い叔母と、ビロードのコートを着た5、6歳のオカッパの私。多分、お正月の記念写真と思われる。この叔母は父の一番下の妹で、お嫁に行くまで、忙しい母に代わって私の世話をしてくれていた。
戦争の末期、人手不足で従業員も雇えず、やむなく恥ずかしがり屋で人前に出ることもなかった叔母までが、父の仕事場に駆り出され、その神田の店で空襲に遭った時(1945年2月25日)も、叔母と二人で懸命に逃げた。夕闇の空が紅蓮の炎で染まり、小雪が舞う中、一瞬花火のように炸裂した焼夷弾がバラバラと頭上に落ちてきた。
青山の家で、何度か空襲警報が出るたびに、防空壕に避難をしたが、すぐに警報は解除になり、こんな凄い空襲に遭ったのは初めてであった。怖いというよりは、まるで夕焼けのように真っ赤になった空がとても綺麗に思えた。それでも小川町付近の都電の線路に、履いていた赤い鼻緒の下駄が挟まって、片方が脱げてしまったが、それを取りに戻る余裕のないことは、子供心にも感じられた。
一旦YWCAの建物に避難したが、ビルの中のあまりの熱気に息苦しくて、外へ逃れた私たちは、そのお陰で命拾いをした。ビルのシャッターに閉じ込められて、中にいた多くの避難者が焼死したという話を、翌日、小学校などあちこちの避難先を探し回って、ようやく代々木の親戚に迎えに来た母から聞かされた。
叔母は背負って逃げた先祖のお位牌が、私たちを守ってくれたのだと、戦争の話が出るたびに話して、終生、先祖の供養に熱心であった。若い頃から体が弱くて、そう永く生きられないと言われていた叔母だが、とうとう子宝には恵まれなかったものの、昨年、80歳で天寿を全うした。
遺影にする写真を探すために、遺品となった叔母のアルバムを繰っていて、偶然この写真を見つけて、貰い受けて来た。子供の頃の、殆どの写真が戦火で焼失して、あちこちの親戚から寄せ集めのアルバムの中にも、この写真はなくて、初めて見るものだった。1周忌を終えた今も、写真立てに飾ったまま、
私を人一倍可愛がってくれた叔母を偲びながら、ときどき眺めている。