花ある風景(49)
並木 徹
毎日新聞時代の友人、古野 喜政さん(64)が日本ユニセフ協会の大阪支部を8月に発足させようと仲間とともに頑張っている。いまの肩書きは大阪支部設立準備室長。スポニチ大阪本社の専務を退いたので、慰めるため、昨年7月、大阪で会った。「いま、ユニセフの支部作りに汗を流してますねん」とすこぶる元気であった。逆に励まされた気がした。
すでに大阪支部は動き出している。昨年10月には大阪市北区で準備室の開設を記念して、チャリティーコンサートを開いたり、12月には全国の運動とあわせて市内で6箇所、ボーイスカウト、ガールスカウト、高校生らとともに募金活動をしたりしている。
古野さんの献身的な活動ぶりには脱帽である。改めて彼を見直した。古野さんとの出会いは昭和38年8月、私が大阪社会部のデスクになった時である。彼は入社3年目の察回り記者であった。事件があった時など同じ団地に住む編集局次長の出迎えの車を「すみません、現場に行きますので・・・」とさっさと乗り込み借りる始末であった。小柄でエネルギーを顔いっぱいあらわす好青年であった。その強引さが好かれもしたし、ときには嫌われもした。
ソウル特派員、社会部長、東京本社出版、学生新聞担当取締役、大阪本社副代表のあと、私から数えて三人目の西部本社代表になった。小倉高校、京大出身の経歴を生かし、大いに人脈を広げ、部数を伸ばした。大阪でも東京でもそうであったが、パーティー、ゴルフ会などにはこまめに出席して顔を広げる努力をしていたのを知っている。金大中韓国大統領の知己を得ているのも特派員時代の成果であろう。
今回のユニセフの支部作りは彼の信条からきている。論語に「余りあるをもって、人を救わんとすれば人を救う時なし」という言葉がある。「余裕ができてから人助けしようと思っていたら人助けなど一生出来ない」という意味である。 彼はそれを実行に移したにすぎない。
正直いってユニセフにはあまり関心がなかった。大体、寄付したり、寄付を求められたりするのは何故か好きでない。このほど彼から届いた寒中見舞いのハガキには「途上国では三秒間に一人、五歳未満の子供が死んでいます」とあった。 今、古野さんの生き方まぶしく、その姿が大きくみえてならない。1月31日大阪支部の会員になるための手続きをした。
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