2000年(平成12年)12月20日号

No.129

銀座一丁目新聞

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茶説

21世紀は人類の英知が花開く

牧念人 悠々

 20世紀もあと僅かとなった。2000年の今年は芳しくないニュースが多かった。政治は混迷、経済は低迷、嫌な事件・事故がおきた。世紀末とはこんなものであろうか。
 温故知新という。100年前の1900年、明治33年はいかなる年であったのか。まず、政治をみる。10月に日本ではじめての政党内閣、伊藤 博文内閣(第4次)が山縣 有朋内閣の後をついで誕生した。しかし、それも政党結成に反感を持つ者が多く、7ケ月で終った。日本人の保守性を示しているが、前の山縣内閣が2年足らずだから日本の内閣はやはり短命である。しかし、伊藤博文は国際情勢の激しい動きを見て、国内でいたずらに抗争にあけくれていては日本のためにならない。強固にして永続性のある政府の必要を痛感、自分のあとの桂 太郎内閣となにかにつけ妥協した。このため、桂内閣は明治23年の第一議会からはじめての任期満了に伴う総選挙を迎えることが出来た(警視庁史 明治編より)。
 「加藤 紘一の乱」が有り、やっと切り抜けたものの、相変らず支持率10%台の森内閣では前途は厳しい。来年の参院選挙ではっきり答えがでよう。
 日本の公害の原点といわれる足尾鉱毒事件が起きる。33年2月13日、群馬県渡良瀬村から数日分の食糧を持った農民約1万人が請願のため上京についた。渡良瀬川沿岸の住民は足尾銅山の廃棄物の投棄、山林の乱伐などで鉱毒被害と洪水の被害を蒙っていた。一向に対策をたてないので、我慢をかさねていた住民たちがついに立ち上がった。川俣の渡船場にきたところ、警官隊と衝突、農民側に多数の負傷者を出した。翌年の12月には田中 正造代議士が明治天皇に直訴する事件までおきる。加害者の古河鉱業と被害農民(971人)との間で決着がついたのは実に昭和49年である。
 いまは自動車の排気ガス問題、原生林伐採などで地球温暖化が懸念されており、全地球的規模で問題となっている。記録によると明治40年東京府の自動車は僅か16台であった。現在は7100万台である。
 スポーツに目を移すと、33年5月10日、一高対横浜外人の野球試合が行われ、一高が4対0で勝った。日本のプロ野球選手がアメリカのメジャーリーグに行くようになったのをみれば、隔世の感がある。
 33年9月11日、新橋と上野の両駅にはじめて公衆電話が設置された。料金は15銭(このころビール一杯、10銭)通話時間5分間であった。いまや、携帯電話が普及、インターネット機能をもつ「iモード」は1000万台を突破している。生活は便利になったが、若者のマナー、公徳心は一段とわるくなった。
 阿久 悠さんは警告する。「産業革命は環境破壊をもたらしたが、IT革命は人間崩壊をもたらす」IT革命のスピードは速い。二百年かかった産業革命の比ではない。後50年もすれば、ピークに達するであろう。その時、人間の世界は暗たんたるものではないだろうか。
 始まったばかりのIT革命だけではではないであろうが、人間崩壊はすでに起きている。気がムシャクシャするといって、金属バットで無差別に通行人を殴打する17歳の少年、赤ん坊を虐待して死亡させる20代の夫婦、子供に保険をかけて、殺害する母親・・・
 耐える。我慢する。思いやり。慈しむ。礼節。公徳心。人間としての基本的なものを自由、個性の尊重の名のもとにどこかへやってしまった感がする。IT革命がそれを助長していると言ってもいいすぎではないであろう。
 人間崩壊をくいとめるのは文化しかないように思う。その意味では21世紀は文化の時代となるのではないか。音楽、映画、絵画、文学などが人の心を豊かに、しなやかに育てる…と考えるのだが、人類の英知を信じて21世紀を迎えたい。

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