「第五福龍丸」の被爆をスクープした読売新聞記者、安部 光恭さんが12月13日急性腎不全のため死去した。享年70歳だった。
第五福龍丸といえば、苦い思い出がある。当時、毎日新聞の社会部記者で、造船疑獄事件の取材班のメンバーであったが、昭和29年3月15日は社会部の宿直であった。夜の12時過ぎてからUP支局から読売新聞が焼津で事件があったと報道しているといってきた。警察庁、警視庁、静岡県庁、同県警など心当たりをあたったが、何もとれなかった。
読売新聞の世紀のスクープは一通の電話から始まる。阿部記者の下宿先のおばさんからの電話によると、親せきの漁業関係者の話では14日に入港したマグロ漁船の船員たち全員(23人)が妙なヤケドを負っている。ビキニ環礁のそばを通った時(3月1日・ビキニの北東100マイル)、強い光を見て間もなく、空からふってきた白い灰をかぶったというのである。帰宅した高校生の息子がその話をきいて「それは放射能かもしれない」といってきかないという。息子さんは読売新聞が1月からはじめた原子力の平和利用をテーマにした大型連載「ついに太陽をとらえた」の愛読者だった(「読売新聞風雲録」辻本 芳雄さんの「原子力班誕生」より)。
スクープもその新聞の掲載している内容に大きく関連してくるという一端を示したものであった。
辻本さんんのエッセイを読むと、読者に強烈な印象を与えた「死の灰」は村尾 清一記者のヒントだという。村尾記者とは警察まわりをした仲間であり、のち論説委員となり、名文家として知られる。
この辻本さんが夕刊デスクに残した引継簿が見事である。
1、築地に張り込み、マグロを警戒すること
2、灰を分析したら爆弾の内容がわかるだろう
3、アメリカ側から直ちにあの船を取り返しにくるだろうから気をつけること
引き継いだ三点はすべて当たった。いまこのような的確な判断を下す社会部デスクはすくないであろう。
この事件はさまざまな教訓をマスコミ人に与えている。
(柳 路夫) |