2000年(平成12年)12月01日号

No.127

銀座一丁目新聞

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追悼録(42)

 黒澤 明さんがなくなってから2年有半になる(平成10年9月死去、享年88歳)。黒澤監督のもとで長く助監督を勤めた堀川 弘通さんが『評伝 黒沢 明』を毎日新聞社から出版した。評判も良く、売れ行きもいいらしい。
 その堀川さんと11月の末、銀座で食事をする機会に恵まれた。堀川さんに黒澤さんはどんな人でしたかと聞くと、「ベートーベンみたいな人ではないかな」という。木村 尚三郎さんに言わせると「モーツアルトの音楽が繊細で女性的、普遍的であるとすれば、ベートーベンの音樂は強靭で男性的、ドイツ的です」と評している。
 黒澤映画はたしかに男性的である。女性よりも男性の探求に力を注いでいる。「七人の侍」(1954年)などはその最たるものであろう。骨折者5人、ケガ人数しれずというからすごい。堀川さんは本の中でいう。
 「戦国時代の武将では織田信長が好きなようだった。日本人だけではなく世界を視野に入れたモダンで果断な性格に親近感をもっていた」
 黒澤本人は「本当は弱虫のセンチメンタリストなんだ」といっており、日常生活で小さな弱い犬が死んだ時嘆き悲しんだそうだ。その黒澤さんがこと映画となると、鬼となる。「死人が出ても仕方がない」と突っぱねる。仕事に徹し、妥協しない。芸術の世界に限らず、狂気にならなければ、いい仕事が出来ないのかもしれない。だからこそ、世界の巨匠、クロサワが誕生したといえる。映画監督ジョージ ルーカスをして「七人の侍を見た瞬間から現代まで黒澤作品は私の創造的インスピレーションの最も力強い源泉の一つとなっている」といわしめるのだろう。
 最後に堀川さんが面白い話をしてくれた。堀川さんは子供の時、麹町の東郷小学校に通っていた。学校の上の台地に東郷 平八郎元帥邸があった。大正12年9月1日の関東大地震の際、東郷さんが屋根の上にのぼって、赤い腰巻を振ったら風向きがかわって類焼をまぬがれたという。このとき元帥は76歳であった。記録によれば、麹町一帯も猛火があれ狂ったとしるされている。昔から火事の際、赤い腰巻を振ると風向きが変ると言い伝えがある。
 ちなみに、東郷元帥は昭和9年87歳でなくなっている。葬儀は国葬で行われた。

(柳 路夫)

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