2000年(平成12年)11月20日号

No.126

銀座一丁目新聞

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追悼録(41)

 中村 梅雀の大石蔵之助をみて(11月8日・前進座)大石という人物がますます好きになった。兵学を山鹿素行に漢学を伊藤仁斎に学んだので、堅物の真面目人間と思っていた。
第一場第一幕でいきなり女中お幸(紫野明日香)との濡れ場がでてきて考えを変えた。大石も並みの人間であったようで、安心した。樋口清之著「史実 江戸」(巻一)によると、「良雄という人は家老時代か遊蕩児で、盛んに浪速や京で嬌名を流しており、妾も数人あったと言われます」とある。 
 その人生哲学がいい。池波 正太郎の「仇討群像」には「父祖代々の家老を居眠りしながらつとめていて、朝夕の食事をおいしく食べ、たまさかにはおもいきり女の肌の香におぼれる・・・ま、人の一生というものは、突き詰めれば、只これだけのことが渋滞なくおこなわれてゆくことにあるのだから、このまま後十年か二十年か…ゆったり生き、やがて死ねればよいのだが・・・」と紹介する。だから「昼あんどん」といわれ自ら「眠牛」と号した。
 男がことをなすにあたって、真面目、遊蕩児などは関係がない、いま何をなすべきか、何をすべきかを判断し決断すればよいのである。
 話が横道にそれるが、土肥原賢二大将(陸士16期)の言葉を思い出す。
 「戦術は難しいものではない。野球の監督だって、碁打ちだって、八百屋の商売だってみんな戦術をやっているのだ。只兵隊の戦術は軍隊という駒を使って、戦場という盤上でやる将棋だ。だからこの場面で相手に勝つには何をするのが一番大事かを考えるのが戦術だ。要するに駒と盤が違うだけで世の中の誰もがやっていることだ」(堀 栄三著「大本営参謀の情報戦記」より)
 城代家老として何をなすべきか、大石はお家再興を第一とし、あだ討ちは最後の手段と考えた。赤穂城を受け取りに来た幕府目付役にお家再興のことを嘆願するなどあらゆる手立てをつくした。その望みがかなわぬとわかってはじめて最後の方法を選んだのである。
 あだ討ちをする年の春、妻りく(妻倉和子)を離縁して次男大三郎ほか一男一女を但馬・豊岡にある実家へ帰す(第二幕第三場)。また事件以来藩の公金を自ら管理し収支明細を明らかにしている。やるべきことはすべてしている。
 元禄15年12月14日(1702年)大石らが本懐をとげた江戸では落首が詠まれた。

 いままでは/浅い内匠と/思いしに
    深いたくみに/きられ上野  

       (羽生道英著「小説「大石蔵之助」より)

 時には、万松山泉岳寺にある「忠誠院刃空浄剣居士」とある石碑のもとに眠る大石蔵之助を拝むことにしよう。

(柳 路夫)

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