2000年(平成12年)11月01日号

No.124

銀座一丁目新聞

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追悼録(39)

 梶山 静六君を偲ぶ会が陸士の同期生90人が集って10月25日、ホテルグランドヒル市谷で開かれた。
 私たち59期生は学業半ばでは敗戦を迎えた。戦後、日本再建のため全国各地に散った。
 梶山君は政治の道を志し、地方議員から昭和44年、国会議員となった。以来「愛郷無限」を政治信条として、振武台(予科)、修武台(航空士官学校)で鍛えた体力と英知と度胸でその豪腕を発揮、自治相、通産相、法相、官房長官を努め、国政に貢献した。
 席上、航空士官学校で同じ中隊だった後藤 久記君(司会)が面白いエピソードを披露した。
 昭和19年3月、地上兵科より一足先に卒業して修武台に進んだ彼らは満州で操縦の訓練を受ける20年3月まで予科時代より厳しい訓練を受けた。7月と8月の二回にわたり炎熱下の完全武装、水筒なしの行軍を行った。体力ぎりぎりのはげしいものであった。そんな中「しるこ券偽造事件」がおきた。修武台の酒保では「しるこ券」を配布して券持参者にしるこを飲ましていた。その券を後藤、梶山両君が200枚偽造して同期生に配布した。皆喜んだのはいうまでもないが、配布枚数にあわせて、しるこをつくっていたので、すぐばれてしまった。
 学校当局がてぐすねひいて待っているところへ、同期生の一人が偽造券を持っていって、捕まってしまった。中隊長と区隊長に問いただされた同期生は「私が作りました」と二人の名前をださなかった。中隊長も区隊長も日ごろから真面目なその同期生がそんなことをする男ではないとみているので、さらに追求したが口を割らなかった。
 なかなか同期生が区隊長室から帰ってこないので、後藤、梶山の両君が出え向き「私たちでこの同期生を切磋琢磨しますから身柄をまかしてください」と申し出た。中、区隊長は「まれにみる君たちの友情だ」と激賞した。ところが、話をしているうち偽造したのが二人であることがバレてしまった。とたんに中、区隊長の態度は激変、「この不届きものめ」ということで、二人とも処分された。
 かなり重い処分であったが、親には知らされなかった。母親思いの梶山君はそれが一番嬉しかったという。
 歩兵の私と航空の梶山君とは深い接点はないが、スポニチの社長時代、村山 富市内閣(平成6年6月30日ー平成8年1月11日)が出現する直前、スポニチの文化社会部の記者のインタビューに心よく応じてくれた。「自、社、先駆け」が提携する話を率直に語り、そのニュースがスポニチの裏一面を大きく飾ったことがある。「同期生の社長によろしく」と名刺を渡されたと若い記者が報告したことを思い出す。
 このスポニチのニュースは一般紙より早かった。毎日新聞もこのニュースをつかんでデスクに報告したが「そんなバカな事はありえない」と一蹴された。スポニチの場合、政治には素人である。玄人が一笑にふしても「面白い話」としてドンドン載せてしまう。時代は激変している。固定観念でみていては誤りをおかしかねない。その意味では「破壊と創造」を唱え、先見性ある政治家、梶山君の死は惜しみて余りある。

(柳 路夫)

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