2000年(平成12年)11月01日号

No.124

銀座一丁目新聞

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花ある風景(39)

 並木 徹

 津田塾大学の創立者、津田 梅子を描いたドキュメンタリー映画、藤原 智子監督の「夢は時をこえて」を見た。藤原さんがその生き方に感動して長年温めていた企画である。
 津田 梅子が明治33年(1900)に10人の生徒だけで開いた「女子英学塾」から続々優秀な人材が育ち、各方面で大活躍している。あらためて教育の力のすごさを知らされる。労働省の初代婦人少年局長、山川 菊栄(1890−1980)、同じく婦人局長を努め、後に文部大臣にもなった赤松 良子も同校の出身者である。私の身近なところでは毎日新聞のはじめての女性海外特派員は津田塾出身者であった。
 津田 梅子は他の4人の少女と共に明治4年11月欧米視察団と同行してアメリカに渡るのだが、時の政府が女子留学生を派遣した理由が面白い。北海道開拓使次官、黒田 清隆(1840−1900)が北海道開拓するのに優れた婦女子をつくるという目的であった。だから費用のすべては開拓使からでている。黒田は伊藤 博文のあと二代目の首相となるが、薩英戦争(1864)のさい、薩摩藩士としてイギリス東洋艦隊と戦い、壊滅的打撃を受けた。早く西欧文明を取り入れなければいけないと痛感した一人であった。
「史話366」(ブリタニカ編)によると、明治44年11月12日、横浜港に横づけしている4500トンのアメリカ丸を見送る人々のなかで、五人の少女の縁者が一番多かった。群集のなかからこんな声が聞こえたと紹介する。「あんな可愛い子供たちをアメリカ三界へやるなんて親の顔がみてやりたい。きっと鬼のような親だろうけれど」
 梅子の父親津田 仙は鬼のような親ではなく傑物であった。明治になる一年前、1867年幕府遣米使節、勘定吟味役の随員として渡米した経験を持つ。また北海道開拓使の嘱託として青山開拓使農事試験場で農事研究をしていた。このような関係から女子の外国留学の話に積極的に応じたわけである。
 英学塾の設立には苦労したようである。仙をはじめ留学仲間の山川捨 松(大山巌夫人)米国人のアリス・ベーコンなどが支援している。アメリカの学友たちも手助けしている。
 映画は1984年、大学の屋根裏から発見されたアメリカの育ての親、アデリン・ランマン夫人に宛てた、数百通の梅子自身の手紙のナゾ解きから始まる。戦争中校舎が軍隊にとられ、校舎正門に軍隊の表札が大学の表札の上にかかげられたのを学生が怒ってとりはずし、近くの川に流したというエピソードがでてくる。また、東京裁判ではその語学力を買われ、訴訟記録の翻訳にあたったというのも戦時中英語の授業を続けた津田塾ならではの話であろう。
 女性の自立をめざして百年、津田梅子が掲げた学生の個性を尊重する小人数教育、国際性と自主性を重んじた教育は見事に花を咲かせた。
 手紙のナゾ解きは映画をみての楽しみにとっておく。

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