2000年(平成12年)10月1日号

No.121

銀座一丁目新聞

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追悼録(36)

 新聞社では秋の彼岸に物故社員の追悼式を開く。創立50周年を越えたばかりのスポニチでは追悼式はまだ10回を数えるにすぎない。毎日新聞は137回先覚者・141回物故社員追悼会を開いている。
 スポニチのはじめての追悼式は平成元年9月であった。スポニチを創業から支え、志半ばに倒れた現役、先輩たちは55柱であった。ことしの新たな合祀者は7人合計94柱となった。
 新たに祭られた元取締役、小川 精一さん(昨年10月22日死去、享年64歳)の思い出を書く。
 私が社長になった時、(昭和63年12月)総務部長であった。真面目すぎる人であった。小川さんに社員くらぶと伊豆大仁の保養所の建設を命じたが、見事に成し遂げた。私はただ「つくれ」といっただけである。完成してみると、社員から特に家族から喜ばれた。建物に小川さんらしいアイデアとやさしさが入っていたからである。保養所の部屋の掛軸はスポニチと関係の深い大山康晴永世名人、二子山親方、柳家小さんの書を選んだ。部屋の名前は海軍の軍艦の名前をつけた。軍国少年だった小川さんらしい。ここの料理は誰もが絶賛する。銀座の割烹で腕を振るっていた田中 秀幸さんをスカウトしてきたのである。
 平成2年新入社員のための富士登山研修制度ができた。頑張り屋の小川さんは健脚でもないのに参加、途中、足が先に進まなくなって、やむをえず山小屋に一泊、山頂まで上り、帰社した。みずから範を示した。
 彼の仕事ぶりをみて平成3年6月、取締役になっていただいた。その後サッカーの国際試合「ベルデイ川崎対ヒムナシヤ」を成功させるなど活躍された。成せばなるの信念のもとに真面目に人と接しコツコツと仕事した人が小川 精一さんであった。

(柳 路夫)

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