2000年(平成12年)9月10日号

No.119

銀座一丁目新聞

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追悼録(34)

 お酒が飲めない私にたった一軒だけ大阪に行きつけの飲み屋があった。名を「小菊」という。毎日新聞大阪本社の近くの曽根崎にあって、毎晩のように社会部の記者たちが顔をみせた。

 昭和38年8月、大阪社会部のデスクとして赴任して以来、マージャンの場がたたない夜は部員たちと飲んでいた。私はお茶ずけを食べるだけであった。店の女主人を私たちは小菊のおばはんと呼んでいた。年のころは私と同じだと言っていたから当時38歳ころとみえた。名を井上けい子といった。

 その小菊のおばはんが今年の7月19日脳梗塞で急逝した。おばはんを偲ぶ会を9月9日、大阪駅前第一ビル地下一階(小菊の上の階)KING OF KINGSで開くというので出席した。毎日の連中だけでなく大阪市役所や東洋レーヨンの人たちも姿をみせ、会場は80人近い馴染み客で埋まった。

 ここで意外なことを知った。本名は山脇 とし子といい、年齢は大正10年6月生まれの79歳であった。

 小菊のおばはんは消息通で会社の内情に精通し、とりわけ人事に詳しかった。この日出席した北爪 忠士さんは会社の内示を受ける前に小菊のおばはんから8月1日(昭和38年)から社会部のデスクになるという話をきかされ「頑張りなさいよ」と励まされたというエピソードを披露した。だから定期異動前には「小菊」は大繁盛した。

 会場で配られた「毎日新聞特別号外」に代表世話人の八木 亜夫さんが書いている。「料理のメニューがあるにはあったが、おばはんが独断でカウンタに並べることもある。『こんなものは注文していない』といっても『文句あるか。黙って食え』言外に『ろくに勘定も払わんくせに』があるからこちらも弱い」

 私もこんな風景をしばしば目撃した。目を三角にしているおばはんの顔が浮かんでくる・・・

 一年半で社会部を去ることになり、小菊の清算をすると、借金が12万円にもなっていた。給料日ごとにすこしづつ払っていたのだが積もり積もってこんな金額になった。別れの挨拶に顔をだすと、おばはんは「半分でいいよ」といってくれた。考えてみれば、おばはんは私には親切であった。陸士53期の許婚を台湾で戦死させたと言っていた。私が6期後輩であるからであろうと思っていたが、許婚の話は作り話かもしれない。私だけでなくみんなに親切だったのであろう。当日集ったおばはんの馴染みの客たちはさまざまな面白いエピソードを聞かしてくれた。最後にお礼の挨拶にたった弟の進さんが「皆さんの話を聞いていますと姉が無事に閻魔さまの前を通れるか心配です」といわれたが、馴染みの客に施した十分すぎる功徳で逆に褒美がでると私はいいたい。

小菊のおばはんよ、ありがとう。心から冥福を祈る。

(柳 路夫)

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