2000年(平成12年)8月1日号

No.115

銀座一丁目新聞

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追悼録(30)

 尊敬する毎日新聞元社長、平岡 敏男さんは広島原爆忌になくなった。(昭和61年8月6日、享年77歳)
北洋子という俳号を持つ平岡さんにこんな句がある。

生き残り/社長となりぬ/原爆忌

 社長になったのは昭和51年2月、67歳のときであった。当時の毎日新聞は173億円の累積赤字、680億円の借入金をかかえて倒産寸前であった。
 それを新旧分離方式で毎日新聞を再建軌道にのせた。新社発足とともに引きつづき社長となった。旧社の最後の編集局長であった筆者は新社の役員になった。平岡さんは41年から2年間西部本社の代表をしている。
その時に作られたと思われる句がある。
      鉄の町/八幡の柳/芽ぶきけり
      門司の灯の/美しき夜の/生ビール
      炭住と/言いし家荒れ/山小春
      豊後竹田/城址に来て/青き踏む

 昭和60年10月20日には筆者(当時西部代表)と「満潮」という料亭で西部の同人とともに会食している。みんなから慕われていたのである。
 47年(63歳)の日記には尾崎 放哉、種田山頭火はわが座右の書であると書いている。まことに意外な感じがする。二人とも萩原井泉水の「層雲」の同人で、この雑誌は自由律の俳句を重んじ、自由なる心の叫びを詠じた。尾崎は一高、東大出身、種田は早稲田中退、尾崎の方が三つ年下であった。二人とも酒に溺れ妻も子も捨てた。しかし、考えてみれば、二人とも教育的ではないにしろ、自分の心に正直にありのままの気持ちを句に表現し、多くの秀作を残している。
 平岡さんは公私の別をはっきりさせる真正直な方であった。常日ごろ「人間の第一条件は人柄だ。心卑しきものはだめだ」といっていた。放哉(大正5年41歳で死去)山頭火(昭和15年59歳で死去)とも自分にあまりにも正直すぎたのである。平岡さんが惹かれるのもわからないでもない。平岡さんがなくなって14年目の新しい発見だった。

(柳 路夫)

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