2000年(平成12年)7月1日号

No.112

銀座一丁目新聞

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追悼録(27)

 沖縄サミットが7月21日から23日まで名護市でひらかれる。
 人々はそれぞれに沖縄に思いを持つ。その土地が戦場となり、多くの肉親を失った沖縄の人々の思いは私たちの想像をこえる。
 毎日新聞西部本社(北九州市)に6年勤務した間に沖縄には5回訪れた。その都度、糸満市摩文仁の丘に足を運んだ。「健児の搭」 「ひめゆりの搭」、それに32軍軍司令官、牛島 満中将(陸士20期)、参謀長、長 勇中将(28期)の自決の地に頭をさげた。
 石原 昌家著「沖縄の旅、アプチラガマと轟の壕」(集英社刊)には日本軍に壕から追い出されたり、泣き声をだす赤ん坊を殺されたりした話がでてくる。轟の壕では救出された住民たちは米軍に将校に「下にいる日本の兵隊を生かしますか、殺しますか」と聞かれ、「殺ろせ、殺ろせ」と一斉に答えたというシーンがある。激戦の中でいつのまにか住民を敵にまわした日本軍の行動に言葉を失ってしまう。
 牛島中将は私たち地上兵科の59期が陸士本科に移る直前までの校長であり、西郷さんと愛称されていたので、なんとなく親近感を持っていた。生き残った高級参謀・八原 博通大佐の手記によれば、牛島中将は古式に則って自決された。介錯したのは剣道5段の坂口副官。時に昭和20年6月22日午前4時30分であった。  この日で日本軍の組織的戦いは終わった。
辞世の句は「秋をまたで 枯れゆく島の青草は 皇国の春によみかへらなむ」であった。牛島さんがなくなる一ヶ月前の5月22日、首里の司令部の壕(摩文仁の壕に移ったのは5月27日)で、毎日新聞の沖縄支局長・野村 勇さん(戦後西部本社編集局次長、故人)は牛島中将から「毎日新聞から毎日賞を渡すよう伝言を受けた」と毎日賞を受け取っている。激しい戦闘が行われる中、困難な取材を続け、沖縄戦の実相を伝えたというのが受賞の理由であった。
 西部本社が大本営を通じ台湾軍第6航空師団参謀を経て届けられたものである。普通の手段では内地から沖縄の特派員に本社の意思を伝えることができないまでに沖縄の戦況が逼迫していたということである。
 6月23日沖縄では「慰霊の日」を迎えた。沖縄戦の戦没者名を刻んだ「平和の礎」には今年新たに判明した韓国人32名を含んだ204名が追加された。刻銘総数は23万7909人となった。

稀にきて 訪うも悲しき 摩文仁岳(那覇市 豊里 安陛さん70歳・6月23日琉球新報より)

(柳 路夫)

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