旧制中学校の2年から5年まで中国・大連ですごした。この間同市光明台にあった「振東学舎」で寄宿舎生活をした。この学舎は金子雪斎という漢学者が大陸で雄飛する青年のために設立したものだが、昭和10年代では両親のもとをはなれて市内の中等学校に通う生徒のための寄宿舎となっていた。いまでも当時、この学舎で生活をともにした者たちが年に一回あつまって会を開いている。
今年も5月に鳥取や福島からもかけつけ6人が出席、昔話に花を咲かせた。いつも最後に歌うのが「振東学舎塾歌』(昭和12年8月作)である。
きん花一朝古木に空し/時代の迷夢如何にせん/啓蒙開基の理想を茲に/光明台上光あり
格調の高い歌である。学舎にいるころ、私たちはしばしばこの歌をくちずさみ、先哲の訓えし道をひたすらあゆみ、人そむくとも吾行かんの気概で日々をおくったものであった。
この歌の作者は藤田 まさとさんである。実は私たちの先輩なのである。
藤田さんの年譜によれば、明治41年5月静岡生まれで、大正9年小学校3年修了と同時に大連に渡り、振東学舎に入り最年少の塾生となる。先輩、同窓に緒方竹虎、中野正剛、長谷川竣、進藤一馬がいるとある。
藤田 まさとと言えば、年配の人たちは「旅笠道中」、「妻恋道中」、「大利根月夜」など股旅・道中物を思い出す。戦時中の代表作「麦と兵隊」は忘れてはなるまい。また引き揚げ船から我が子が降りてくるのを待つ母の姿を歌った「岸壁の母」は旧満州育ちの藤田まことだからこそ切々と胸を打つ詩が生まれたのであろう。
藤田さんのエピソードについて、当時舎監の太田誠さん(故人)から聞いたことがある。大連商業にいたころ、あまり学校には行かず、学舎のフトン部屋にこもりかくれて作詞に励んでいたという。この他柔道、野球も得意で中等野球大会「甲子園」に出場もしている。
人にはそれぞれの道がある。型にはめず、その人の長所をのばすべきことを藤田さんは教えている。
藤田さんは作詞家のために著作権問題と取り組みその法案成立に努力されたとも聞く。昭和57年8月16日、74歳で死去された。
この日出席した大連商業の後輩の由比浜 央さんは数年前、藤田さんの菩提寺静岡県榛原町細江、昭国寺に墓参している。この日も墓のそばに藤田さんが作った沢山の歌の作品名を記した板がありましたよと感慨深げに話していた。
そう言えば、「浪花節だよ人生は」がヒットしたのは藤田さんがなくなってから2年後だというから歌の命は不可思議なもであるとつくづく思う。
欧亜万里に吹け吹け嵐/吾等何か怖れんや/不仁襲はば仁能く征す/光明台上曇りなし